「ホーボー・バッグ」と呼ばれるバッグがある。くたりとした柔らかい形状の肩や腕に下げられるバッグのことだ。

この「ホーボー」というのは、アメリカでは19世紀の終わりから20世紀初頭の不況時代に、家を持たずに貨物列車に無銭乗車し、仕事を求めて渡り歩いた労働者たちのことをさす。

彼らが使ったようなバッグの形というのが、ホーボー・バッグの語源だ。

それが今から100年前のことだが、今もホーボーたちはアメリカをさすらっている。現代に生きるホーボーたちを描いたのが、映画「ノマドランド」だ。

Frances McDormand in the film NOMADLAND. Photo Courtesy of Searchlight Pictures. © 2020 20th Century Studios All Rights Reserved

 

監督はクロエ・ジャオ、主演はフランシス・マクドーマンド。フランシス・マクドーマンドはプロデューサーも兼ねている。

2021年度アカデミー賞では「ノマドランド」は監督賞、作品賞、そして主演女優賞の栄冠に輝いた。私としても、いちばん感銘を受けた映画だったので、この結果に感激した。

監督のクロエ・ジャオは中国人であり、女性として監督賞は二人目、非白人女性では初の栄誉だ。

それがどれだけ大きいことであるのか。メインカテゴリー受賞者20人全員が白人で、「白いアカデミー賞」と批判をされた88回アカデミー賞から比べると、確実に変化を感じられる。

受賞のスピーチで、ジャオ監督は子どもの時に暗記した中国古典詩の「生まれたとき、人は本質的に善人である」という言葉を引用した。

ジャオ監督は、かつて中国の体制に疑問を呈した言葉をインタビューで語ったために、中国では今回の受賞は大きく報じられなかった。国家の圧力を痛感しているはずのジャオ監督だが、それでも「人間の善良さを信じる」という言葉には信念を感じる。

 

マイノリティが揃ったアカデミー賞

2021年のアカデミー賞はコロナ禍のために公開延期をした大作が多かったせいで小粒の作品が揃ったが、そのぶんとても見甲斐がある作品が揃った。

ブラックパンサー党の活動家と裏切り者、ベトナム戦争に対する反対運動をした活動家たち、韓国から移民して農業を始める一家、聴覚を失ったドラマー。そこで描かれる人々は、マイノリティだ。

これはコロナ禍のせいで、「砂の惑星」といったビッグな賞狙いの作品が軒並み公開を延期にしたために、低予算の映画が公開されて、賞にノミネートされたというのが大きな原因だろう。

「ノマドランド」で描かれるのは、アマゾンの物流センターで働く高年齢者たちだ。

主人公のファーンはネバダ州のエンパイアで働いていたものの、工場の閉鎖で街がまるごと消えてしまい、彼女も家を手放して、自家用車に家財を積みこみ、流浪の旅に出る。

日雇いの職を求めて、アマゾン物流センターや天然石の販売、あるいはキャンプ地の清掃員、ファストフードの店員といった職を転々として、その過程でファーンは同じ境遇の人々と交流を深めていく。

つかのまの交流があり、別れがあり、また違う交流と別れがあり、ファーンはあくまでおのれの自由と独立独歩をつらぬいていく。

クロエ・ジャオの巧みさは、日々の淡々としたスケッチを続けながら、観客を飽きさせないところだ。

出てくる車上生活者たちの多くは、実際の本人たちであり、ドキュメントフィルムを見るようでいながら、みごとにキャラクターアーク(物語で登場人物の変化や成長があること)が描かれている。

Frances McDormand in the film NOMADLAND. Photo Courtesy of Searchlight Pictures. © 2020 20th Century Studios All Rights Reserved

2008年以降増えた高齢の車上生活者たち

原作は、2017年にジェシカ・ブルーダーが上梓したノンフィクション『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』による。

2008年のリーマンショックが引き起こした経済危機で、仕事を失った50-70代の初老の人々が、そのために住む家もなくして、キャンピングカーに家財を積みこんで放浪するようになった。

彼らは「ヴァンドウェラー」(Vanとdwellerの造語)あるいは「ワーキャンパー」(WorkとCamperの造語)と呼ばれる車上生活者たちだ。

彼らのゆるやかなコミュニティもつくられていて、アリゾナ州クォーツサイトで行なわれるイベントには、車上生活者たちが4万人以上集まるといわれる。

映画には、そのイベントも出てきて、創始者であり、ヴァンドウェラーのカリスマ的存在、ボブ・ウェルズが本人役として登場する。出てくる車上生活者たちもほとんどが実際のヴァンドウェラーたちだ。

 

Bob Wells in the film NOMADLAND. Photo Courtesy of Searchlight Pictures. © 2020 20th Century Studios All Rights Reserved

 

なにもない沙漠のド真ん中にキャンプカーが集まり、彼らがキャンプファイアーを囲んで語りあい、協力しあい、そしてまたひとりずつ沙漠のなかに消えていく。かつてのヒッピームーブメントを彷彿とさせる、そのカルチャーは圧巻だ。

  

放浪と自由を好むアメリカン・スピリッツ

もし私は前知識がなかったら、これがアメリカ人監督による作品だと思っただろう。それほどこの作品にはアメリカの空気感がある。

実はクロエ・ジャオ監督は、前作「ザ・ライダー」でインディペンデント映画界での絶賛を集め、プロデューサーであり、主演女優であるフランシス・マクドーマンドが監督に抜擢したという。

この「ザ・ライダー」も荒くれ馬に乗るロデオをテーマにしていて、まったく東洋も女流も関係ない内容だ。デビュー作もネイティブアメリカンの家族の話だ。つまりジャオ監督は最初からきわめてユニバーサルな作品作りができる監督なのである。

では、「ノマドランド」が持つアメリカな空気感とは何なのか。ひとつが現代のノマドたちの生き方だ。

かつて代用教員だったファーンが、教え子だった少女から「先生はホームレスになったの?」と尋ねられて、「ホームレスではなくて、ハウスレス」と答えるシーンがある。

ファーンは家族や親戚に頼るよりも、独立独歩であることを選ぶ。縛られることを嫌う代わりに、泣き言もいわない。

一匹オオカミで、独立独歩、自由を愛して、定住をせず、孤独を引き受け、困難も切りぬける。こうしたキャラクタ−はアメリカ映画では繰り返し出てきたもので、古くは「シェーン」のようなガンマンから、「イージーライダー」のキャプテン・アメリカ、宇宙時代になっても「スターウォーズ」のハンソロのように脈々とアメリカン・ヒーロー像として続いてきた。

そしてこの映画では、そのハードボイルドでタフな主人公は、仕事も財産も力も美貌も若さも持たない中年女性であり、そこがリアルなのだ。

映画を見終わる頃には、ファーンの頑なでありながら、どこまでも独立独歩な生き方に潔さを感じるだろう。

 

天地が広大であるアメリカの圧倒的な孤独感

もうひとつ映画から強烈に感じたアメリカらしさは、広大な土地と乾いた空気が生み出す、ドライな質感だ。

アメリカを旅した者なら誰もが知っている、あの茫漠とした光景。何時間走っても、同じ景色が続く広大さ。その圧倒的な土地の大きさには、人間の小ささを感じざるを得ない。

この映画で出てくるアメリカの自然は、息を飲むほど美しい。

Frances McDormand in the film NOMADLAND. Photo Courtesy of Searchlight Pictures. © 2020 20th Century Studios All Rights Reserved

実際に国立公園でのロケもあり、人類の居住を許さないほどの茫漠とした沙漠や岩の原、深い森や断崖絶壁が出てくる。

その圧倒的なスケールを持つ自然と人間の小ささ、存在することの根本的な孤独。アメリカの荒野を運転する時に覚える寂しさは、ちょっと他に喩えるものがない。

実をいうと、最初は「家も仕事も失った中高年ノマドの物語」という設定に、あまり観たい気持ちが起こらなかった。コロナ禍のときに暗い話を観たら、ますます落ち込みそうだからだ。

けれども「その反対に、癒やされる映画らしい」と人から聞いて、ようやく観る気になったのだった。

そして観たあとは、たしかにファーンたちノマドの生き方に、そして自然のスケールの大きさに、あたかも自分も旅に出たかのように感情が浄化されたのだった。

 

ヴァンドウェラーたちはなぜ白人なのか

さて、この映画に出てくるヴァンドウェラーたちは、ほとんど白人だ。これはヴァンドウェラーの特徴的なことなのだが、彼らはRV車が持てるだけの財産があり、キャンピングカーで公共の駐車場に停まっていても白人であれば逮捕されたりすることがないからだろう。

そして幌馬車の開拓者たちの時代から、自由を求めるフロンティアスピリッツがアメリカ人に宿っているといえる。おそらくヴァンドウェラーの多くが銃も車中に用意してあるはずだ。

一方、「さまよえる黒人」というのは歴史的に存在しない。奴隷制度があった時代は逃亡奴隷とみなされて凄惨な罰を受けたし、その後も「うろつく黒人」は不審者としてリンチされたり、逮捕されたりしてきた。今でも勝手に車を停めていたら、通報されるのがオチだろう。

現代でも低所得層の黒人は、プロジェクトと呼ばれる低所得者用のアパートに詰まって暮らしていて、そもそも売り払う家屋敷を持っておらず、自分たちのエリアからあまり移住しようとしない。

またアジア系もチャイナタウン、コリアンタウンといったように自分たちのコミュニティを形成して暮らしていることが多く、移民する時はまず親戚を頼る。言葉の通じない移民であっても、空きボトルを集めて収入にするという勤勉さがあり、アジア系が出てくる映画は、ほとんどが家族の物語で、放浪への希求はあまりないように思う。

そういう意味では、ワーキャンパーはきわめて白人的なカルチャーだ。

古くは開拓者たち、そして不況時代のホーボーたち、1970年代のヒッピーカルチャーとして続いてきたスピリッツを感じる。

彼らは「働く」ことの矜持を忘れず、そして一方で体制にコントロールされることを嫌い、自由であることに大きな価値を持つのだ。

 

浮かびあがるアマゾンの労働者問題

さらに観た後に覚えたのは、アマゾンに対する静かな怒りだ。

この映画のために、アマゾンは撮影協力したわけであり、映画のなかではアマゾンは働きにくい職場として描かれているわけではない。ワーキャンパーたちは淡々と働き、また淡々と次の場所に移り住む。

しかしながらアマゾンの頭脳を担当しているオフィスワーカーたちの給与福利厚生を考えると、末端で働く労働者たちは、なんら保証もなく、繁忙期だけ雇われて、あとはお払い箱になっているのが現状だ。

ちなみに21年4月、アラバマ州ベッセマーのアマゾン物流倉庫で労働組合を結成しようとする動きは、従業員投票で否決された。

これは労組結成に非常な圧力をかけたアマゾンと、従業員たちがアラバマの平均より高い賃金を受け取っているために、企業と揉めるのを恐れたのが原因とされている。

21世紀のデジタルなショッピングと宅配ビジネス繁栄の陰で、高齢労働者たちが不当に扱われているのだ・

その意味で、この「ノマドランド」は映画自体がアマゾンに対する強烈な批判になっているともいえるだろう。

Photo Courtesy of Searchlight Pictures. © 2020 20th Century Studios All Rights Reserved

生きているだけで、価値がある

ここに出てくるのは、偉業をなしとげたり、歴史に残ったりするような人たちではなく、社会的にいえばむしろ敗残者でもある人たちのささやかな人生だ。

しかしながら、そこに描かれるのは、生きることそのものの美しさだ。

ヴァンドウェラーの教祖ボブ・ウェルズは、「この生活で良いのは、さよならをいわなくていいことだ。必ずまた会える」と語る。

癌で亡くなる登場人物は病院で亡くなるよりも、北に行くといって、ひとり孤独の旅に出る。彼女が口にするのが、かつて見た美しい光景であって、それを見て死にたいというセリフだった。

「見るべきほどのことをば見つ」というのは、『平家物語』で平知盛が入水するときの言葉だが、まさに同じような感慨を受けた。

私たちは生きて,経験して、地上から消えていく。すべてがやがて消えていく。だが、その間に経験したこと、それじたいが輝きなのではないか。

快適とはいえない生活をしながらも、ファーンは他人に対してナイスであり続ける。相手の人生に踏みこまない距離を互いに保ちながら、決して八つ当たりも意地悪もズルもしない。

ファーンが「なしとげた」ことよりも、その経験したこと、見たこと、感じたことがそのまま人生の価値となっている。生きることじたいが貴重な体験であり、生きていれば、それでいいではないか。

本作は、はからずもコロナ禍の年に公開になったわけだが、まさにコロナでそれまでのような生き方ができなくなった人たち、職をなくした人たち、家をなくした人たち、家賃が払えなくなって故郷に戻ったり、ホームレスになったり人たちが山ほどいる。ほとんどの人が生きることの困難さに出会っただろう。

ジャオ監督は受賞スピーチで、「私は世界中のどこに行っても、善い人たちに出会えてきました。たとえどんなに難しくても、信念と勇気をもって善良さを持ち続け、お互いに善くあろうとする人たちに贈る賞です。これはあなたたちの賞です」という感動的な言葉で締めくくった。

私たちの人生はささやかなものかもしれない。けれども生きて体験したことは、それだけですばらしいことではないか。すべての人間がこの世を旅するノマドなのだ。