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ヒトコの小径

ある朝、起きたらスーパースター!

ノーベル賞授賞式関連のニュースは、アメリカのニュースではカーター元大統領の様子がちらっと報道されただけだったが、このところ日本のニュース番組では目白押しに流れていた。 ストックホルムに到着した日本人受賞者のお二人の姿を見ていると本当に微笑ましく、立派なことを成し遂げる人はやはり言うことも素晴らしい、と感動する場面も多い。凡人の私でも頑張ればまだまだ何かできるかもしれない、と夢を与えてくれるようだ。 「よーし。じゃあ、私もピューリッツァー賞でも狙うか! そうなると私が日本人初のピューリッツァー賞受賞者だもんね。むふふ。日本では大騒ぎになるなあ」 なんて、夢は広がる。それを聞いた母親は呆れ返って、 「あんたもほんと能天気ねぇ。そんなことを想像する時間があったら、もっと子供の世話でもしなさい」 と怒っていた。 一応、インターネットでチェックすると、ピューリッツァー文学賞はアメリカ人のみに与えられる賞だということがわかってがっくりきた。どうりで、日本人が受賞したことがないはずなのだ。なーんだ。 「じゃあ、もういっそのこと、シチズンシップを申請してアメリカ人にでもなるか!」 などと想像してみるが、 だんだん馬鹿らしくなってきて、考えていても面白くなくなってくる。その時点で、私の夢話は途中でしぼんでしまうのだ。 しかし、田中耕一氏の今までの報道を見ていると、面白い。勿論、今回の受賞は、彼の才能とそれ以上の努力があってのことだが、本当に彼は、ノーベル賞発表後「一夜にして人生が変ってしまった」人と言えるだろう。端から見ていると、こういう人生はシンデレラの夢物語のようで、指をくわえて見てしまうのだが、行き過ぎた報道やその露出度は、本人に言わせれば全く「迷惑」であるだけなのかもしれない。 田中氏をはじめ、「一夜にして人生が変ってしまった」人って、結構いるんだなあと思う。例えば、私が子供の頃の話になってしまうが、1億円を拾ったという大貫さんがその一人。記者会見で緊張のあまり震えていた彼の姿は子供ながらにも覚えている。 モントリオールオリンピックの体操競技で、オリンピック史上初の「10点満点」を出したルーマニア出身のナディア・コマネチは、数年前のTVのインタヴューの中で、当時の自分の人生について、 「次の日、朝、起きたら、その瞬間からやたらと自分の回りがざわざわしていたの。それはもう信じられないぐらいで、14年間、生きてきて、それなりに将来の夢とかいろいろあったけど、私が想像していた以上のものだったわ。とても素晴しいことなんだけど、自分でもどのように対応していいのかわからなかった。一つだけわかっていたのは、もう今までの人生は、戻ってこないんだなってことね」 と語っていた。 そういう「一夜にして人生が変ってしまった」人たちの中でも、私の中でとても輝かしく象徴的に心に残っている人は、何といっても数年前のグラミー賞受賞式の時に、超セクシーで超素晴しい歌と踊りを披露してくれたリッキー・マーティンなのである。 彼のパフォーマンスが終わると同時に会場はスタンディングオベイションとなり、Bravo! と私も体がぞくぞく来てしまった。あの時、世界中で、衛生放送などのTVの中継を通してその模様を見ることができた人々は、殆ど全員が私と同様にすっかり魅せられてしまったのではないかと思う。 彼は、子供の頃からショウビジネスにいたわけで、いくら下積み生活が長いといっても、一夜明けたら、スーパースターになっていたのだから、そういう人生って凄いなあと思う。Continue Reading

ヒトコの小径

「挫折」と「踊らにゃ損、損」との関係:私の場合

「踊らにゃ損、損」っていう言葉があるけれど、私は何を隠そう、踊るのが好きだ。 東京にいた時は、私も若かったし「ディスコ」ブームだったりしたので(その頃は、まだ「クラブ」と呼ぶ人はいなかった)、そういう場所によく行ったものだ。懐かしいな。 新宿「椿ハウス」や六本木スクエアビルの「玉椿」、来日ミュージシャンが必ず行ったという六本木「レキシントンクィーン」、米軍基地の人たちで盛り上がっていた赤坂「ビブロス」、そしてお洒落な外国人モデルの溜まり場だった青山の「Tokio」 などなど、母親とよく行ったものだ。 なんてったって、うちの場合、真面目な高校生だった娘を、母親が「勉強ばかりしていては駄目よ」と言っていきなり夜の街へと連れ出したのだから、みんなに驚かれる。(「椿ハウス」はママと行くとタダになる曜日とかがあったんだよねぇ。冗談で、パパも一緒に行こうよと誘っていたらしいが、それは勿論実現しなかったなあ) その後もずっと、私の「ディスコ」通いは続き、海外旅行へ行った先でも、そこが香港だろうがハワイだろうが所構わず、ダンシン、ダンシン、していた。 東京では、ディスコの店員や常連たちとも友達だったから(これポイント)、仕事帰りに一人でふらっと踊りに出かけたりもするようになった。がしかし、マイ「ディスコ」ブームも、90年代に突入しピークを過ぎてしまった。 当時、「お立ち台」で有名になった「ジュリアナ東京」と並んで東京湾沿いで盛り上がっていた「Gold」で、華やかにその幕を閉じることになる。ああ、思い出しても楽しかったなあ、あの頃は。 イエ~ィ!(ちょっと個人的こだわりから言っておきますが、「ジュリアナ東京」には行ったことがありません) 先日、友人が都内の有名私立小学校に通う自分の子供のことで 「大学までは一応、もう心配することないわけなんだけど、それでいいのかなって、思う時もあるのよね。男の子だからさあ、ある程度、挫折のある人生じゃないと、逆に駄目なんじゃないかなってね」 と言っていた。 私は反射的に「人生、受験で失敗することだけが挫折じゃないから大丈夫だよ」と笑いながら言ったが、目指す高校/大学受験でことごとく失敗してしまった自らの過去を思い出したのだった。私の人生ってやっぱり挫折だらけだったのかあ。 勉強が嫌いでどうしようもなかったというのなら、話もわかりやすいのだが、私は小学生の時は学級委員にいつも選ばれていたし、中学を卒業するまで自慢じゃないけどほとんど「オール5」だった。(ここはさらっと、聞き流してください) それが、この高校にしか行きたくないと自ら一校に限定してしまったために、その高校受験で失敗し、あわや中学浪人しそうになった。なんとか第二募集の試験で合格した高校に入学したのだが、そこが第一志望ではなかったという理由で、まわりのみんなにもかなり斜に構えて反抗的になった。明るい優等生から、卑屈な「授業はサボって出ないけど、テストの点だけは常にクラスのトップ」といったとても感じの悪い生徒になってしまった。 みんなはそういう経緯など全然知らなかったと思うし、私は単純に学校では「周囲にあまり馴染めない大人しい人」というレッテルを貼られたのだ。 更に高校受験の時と同じ理由で大学受験も失敗した。 行きたかった大学も諦めなければならないことになり「仁子は、踏まれても踏まれても起き上がる麦のような人」と書かれた手紙を母から受け取った時には、私はなんて可哀相な子なのだろう、と惨めになった。 女の子だからと適当に妥協して進学したものの、「受験に失敗した」というコンプレックスは現在でも私の心の傷としてしっかり残っている。 「有名一流大学へクラスのみんなと一緒に進む」コースから見事に外れてしまった私の人生は、その瞬間からずっと屈辱的なものになったのである。非常に高い目標を持って着実にそれに向かって励むタイプの少女だったのに、肝心なところで失敗してしまったために、私の人生は歯車が狂ってしまったのだった。どんくさいというか、運が悪いというか。どうして?Continue Reading

ヒトコの小径

to be continued な人生

先日、生まれて初めて日本のラジオ番組に出演した。日本から電話でインタヴューを受け、9月に出した『I Still Love New York マンハッタン生活風景』という本のことやニューヨークのことについて語る、という趣旨のものだった。短い時間だったが、なかなか面白い経験をさせてもらった。 インタヴュアーは、FM大阪でオンエアされるその番組のDJで、シャーリー富岡という人。マイケル富岡の実のお姉さんで、昔「ハーフ」のモデルが流行っていた頃の草分け的存在の人でもある。私ぐらいのジェネレイションの人たちなら何となくわかるかもしれないが、キットカットの初代CMに出ていた女の子が彼女なのだ。 マイクロフォンに向かって話しをしたわけではないが、やはりちょっと緊張した。側で私の喋りを聞いていた母は、首を思いっきり振り続けながら、「ぜーんぜんだめだめ、もっと落ち着いて。声が低すぎる・・・」とメッセージを送っているのがわかったから、余計に調子が狂ってしまった。 もともと喋りはあまり得意な分野ではない(えっ?何カッコ付けて言ってんのよ。いつも一人でぺらぺらまくしたててんじゃないのよ~、と言う友人たちの顔が目に浮かぶ)。でも、言葉で何かを正確に伝えるのは、本当に難しいと思った次第である。言葉は一度放たれたら、決してデリートできないし、瞬間的アートだ。常に自分と真正面から向き合って、正直な気持ちで自分自身に接していないと、なかなか真の言葉は生まれてこない。 シャーリーをはじめ、声だけで勝負している人たちは、裸で戦っている人たちみたいで凄いなあ、と感心した。しかも彼女は日本語と英語、両方とも完璧で、どうしたらそうなるのか、うちの子供たちの為にも、彼女のお母さんに是非お話しを伺いたい、と思ってしまった。 私が子供の頃、毎週欠かさず見ていた『ファンキートマト』という番組の司会をしていたシャーリーと再会したのが、2年前。インターネット上でだった。そして実際に会うことができたのは、昨年の5月。ここニューヨークに彼女がやって来た時だ。私にとって、子供の頃のアイコン的存在であった人と、20年の歳月を経て会うことができたのだから、なんとも感慨深い。TVを見ていた時、将来、まさかニューヨークでその司会者とハグし合うことになるなんて、考えてもみなかったなあ。 シャーリーとの出会いは、「終わったと思ったお話しに続きがあった」、そんな感じだ。そう思うと本当に不思議な気がする。人生って長いなあと思う。これからも、まだまだ何が起こるかわからないのだ。楽しみでもあるが、反対に気も抜けない。 続きのあるお話しといえば、数ヵ月前、TVのインタヴュー番組で、テイタム・オニールが出ていた。知らない人もいるかもしれないが、昔々映画雑誌の『ロードショー』とか『スクリーン』を愛読していた私にとっては、とっても懐かしい人だ。 史上最年少でオスカー受賞者となり、父親は当時ハリウッドの売れっ子二枚目俳優で、『ある愛の詩』のライアン・オニール。その頃の彼女に関する記事の中でも、ファラー・フォーセットがパパのガールフレンドで、シェールのことを「友達」だと言っていた。16歳の誕生日に何が欲しいかという質問に、「テニスコート」とさりげなく答えていたりして、彼女はなんて桁違いに幸せで恵まれた人なのだろう、と子供の私はずっと羨ましく思っていたのだ。 時が経ち、彼女もすっかり大人になっていた。彼女はインタヴューの中で「みんな私がいい人生を送っていると思っていたのよ。でもそれは他人が勝手に想像していただけのこと。みんな何も知らないのよ。私は一度だって自分の人生が幸せだと感じたことなんてないわ」と言ったのだから、私はたまげてしまった。自分の女優としてのキャリアについても、「私がなりたいと思ってなったわけではなくて、何もわからない子供の時に、人からたまたま与えられたものだ」と言い放った。だから、手にしたオスカーも、全然、重みがなかったのだ。 思春期にダイエットの為に父親から勧められてコケインを始め、もっと普通の父親が欲しかったと言っていた。父親とはもう何年も口を聞いていないのだそうだ。ジョン・マッケンローと離婚した後、彼との間にできた3人の子供たちの親権を失い、現在は子供たちにも会えない状態であるらしい。ドラッグフリーになって数ヵ月が経つと言っていた。 彼女は、怒っているように見えた。幸せじゃないんだなあと思った。これにはショックだった。今でも何冊ものスクラップブックとして本棚に残っている、彼女の写真や雑誌の切り抜きなどといった私の青春の思い出は、どうなってしまうのだろう?私が憧れていた世界は全部、虚像のものだったのだろうか。 インタヴュー後、十数年振りにもう一度、そのスクラップブックを開いて見た。遠くを見つめるような、どこか寂しげなあの懐かしい彼女の笑顔があった。 上山仁子その他のサイト・HP・子育てブログ

セレブの小部屋

私の英語はチャールトン・ヘストンには通じない!

ハリウッド・インタビュー歴18年の私だが、失敗談はある、ある! 一番の大失敗は、この仕事を始めたばかりの頃。 新作映画が公開されるたび、映画スタジオは高級ホテルの部屋をかしきって、ジャーナリストたちを集め、一斉に複数のクルーやキャストにインタビューをさせる。知名度のあるスター以外に、脇役や裏方さんのインタビューも強いられるわけだ。

セレブの小部屋

リサ・クドローがほめてくれた ユニクロのジャケット

年末はアカデミー賞候補の映画がたくさん封切られるので、私のように雑誌やテレビ用に取材をする映画ジャーナリストは大忙し。 2002年末は5週間のうちに、ジョージ・クルーニー、リチャード・ギア、ニコール・キッドマン、レネ・ゼルウェガー、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ、ヒュー・グラント、サンドラ・ブロック、ロバート・デニーロ、ビリー・クリスタル、サム・ロックウェルなど多くの映画関係者に、インタビューした。 普段は育児に忙しい私、仕事以外では家をあけない。仕事であっても家を長くあけられないので、スパイク・リーのインタビューさえ、この年末には断ってしまったほど。