どんな人生にもドラマがあるものだが、ミカ・ストルツマンさんほど変化に富んだ人生を歩んできたひともめずらしいだろう。
天草でマリンバ教室をひらき、農家の嫁でもあったミカさんは、44歳で単身ニューヨークに移り住む。
そこからマリンバ奏者として本格的な挑戦が始まった。
今ではスティーヴ・ガッドら当代一流のミュージシャンたちと共演し、現在の夫であるリチャード・ストルツマン氏とアルバムを出し、カーネギーホールでコンサートも10回目を迎えるほど活躍している。
「演奏家になるなんて遠い世界のことだと思っていた」
というミカさんが、どうやって道を切りひらいてきたか、深く尋ねてみた。
天草でドラムに夢中だった十代
「人生で今がいちばん幸せです。一日中、音楽のことを考えて、音楽ができるんですから」
とミカ・ストルツマンさんはいう。
私自身が初めてミカさんの演奏を見たのは、フジテレビのアナウンサー、阿部知代さんの朗読講座だったが、豊かな音色と、独特のリズム感に引きこまれた。
現在のミカさんは夫であるリチャード・ストルツマンさんとボストンで暮らしている。
「天草に住んでいた頃は、お米を買ったこともなかったんです。野菜も自宅で作ったものを食べていました」
と笑う。
美香さんは北海道に生まれ、すぐに父親の故郷である天草に移り住んで、そこで4人の長女として育った。
祖父母は琵琶を奏で、叔母が天草で初めてヤマハのピアノ教室の講師となったという音楽に親しい環境だったという。
そのため3歳からピアノを習い、小学校3年生の時には父親の転勤にともなって宮崎に移り、そこの小学校で初めて作曲もした。
そんな暮らしに大きな変化が訪れたのは、小学校5年の時だった。
両親が離婚をして、子どもたち4人は天草の祖父母の家に住むことになり、宮崎で働く父親とは別れて暮らすことになったのだ。
「不幸だとか辛いとか悲しいとかまったくなくて……。
人がしない経験をしているのだから、と思いこんで、寂しく感じる時はオルガンを弾いていました」
中学校では吹奏楽部に入った。
はじめは吹奏楽器を希望していたのだが、ドラムセットを見たとたん、そのかっこよさに一目惚れしてドラムを担当することになったという。
ミカさんの音楽人生における初恋がドラムだった。
「そこでドラムにはまったんです。毎日、練習にあけくれていましたね。
朝は教室に誰よりも先について、机の上にタオルで作ったゾウキンを広げて、その真ん中にチョークで円を塗りつぶして、それが消えるまで小太鼓を打つ基礎練習をしていました」
顧問の木田匡英先生との出会いも、大きかった。
熱血漢の木田先生に心酔して練習にあけくれたミカさんだったが、先生が目にかけてくれたことが、その後の音楽人生に大きな影響をおよぼしていく。

中学時代の恩師、木田先生と
「当時は日本のフュージョンバンド、『カシオペア』が大好きで、フュージョンにはまっていました」
天草高校でも吹奏楽部に入って、部活に明けくれ、バンドを結成した。
「高校でも勉強そっちのけでバンドに夢中になり、ドラムを叩いていました。アート・ブレイキーやチック・コリアが好きで、ジャズを聴くようになりました」
10代ではどっぷりドラムに浸かっていたミカさんだが、だからといって若い時から演奏家をめざしていたわけではない。
「演奏家になるなんていうのは遠くの世界のことだと思っていました。
音大に行くなんてことも考えていなかった。
まわりには教師以外で音楽の仕事をしている人もいない。
ミュージシャンなんて遠い世界のことで、高校を出たら、ふつうに就職をするつもりでいましたね」
実際、高校3年の秋には銀行に就職が決まっていたのだが、そこに思いがけないチャンスが訪れる。
高校生による県選抜吹奏楽団が編成されて、台湾に演奏旅行に行くことになり、そこでドラム担当として参加を勧誘されたのだ。
誘ってくれたのは熊本吹奏楽連盟理事長を務める中学時代の恩師、木田先生であり、台湾旅行の費用まで出してくれて熱心に勧めてくれた。
おかげでミカさんは台湾演奏旅行に参加。
すると、演奏先ではドラム・ソロが大反響を呼んで、現地でサイン攻めに会い、たちまちスター扱いされたのだった。
ミカさんにとっては演奏家として、海外で評価された初めての経験だ。
「引率の先生たちも音楽をしないなんてもったいないといって下さって。
すでに就職を決めていたのですが、それよりもっと音楽を勉強したいという願いが出てきたんです」
ここでミカさんの人生における、最初の大きな分岐点が訪れる。
「音大に進めるように、木田先生と叔母が一生懸命、父を説得してくれたんです。
それで父も認めてくれて」
音大進学には難色を示していた父親だったが、熊本の音楽短大なら良いだろうと、ついに進学できることになった。
マリンバとの出会い、そして教師に
「音大の打楽器科は私ひとりでしたね(笑)その打楽器科で、初めてマリンバに出会ったんです」
この音楽短大で、初めて先生が奏でるマリンバの音色に触れて、たちまち魅入られたという。
マリンバはアフリカ起源の楽器といわれていて、19世紀後半に南米で作られるようになり、20世紀初頭からアメリカで生産されるようになったという、まだ歴史が百年にも満たない新しい楽器だ。
木琴に似ているが、木琴のソプラノ、アルト、テナー、バスの4つをひとつにして、一台で5オクターブの音階を奏でることができる。
また音が深く響くように鍵盤の下にパイプを取りつけ、パイプオルガンのような音も出せるのが特徴で、深みのある音色が美しい。
旋律を奏でるピアノと、リズムを刻むドラムをかけあわせたマリンバの特徴に、ミカさんはたちまち夢中になった。
「打楽器と、ピアノの要素を両方持っている。その二つが大好きな私にとっては、ものすごく魅力的な楽器なんです」
短大ではマリンバの練習に励み、新人演奏会や卒業演奏会など、いくつものコンサートに出演した。
とはいえ、アルバイトで生活費をやりくりしていた彼女にとっては早急に職につく必要があった。
そこで卒業した後は天草に戻って、中学校の臨時採用で音楽講師となったのだった。
その中学では器楽部を作り、生徒たちは1年後には町公民館でコンサートを開くほどに成長した。
そのつぎは天草の小学校で4年間、子どもたちに吹奏楽を教えた。

九州吹奏楽コンクールにて。子どもたちを指揮するミカさん
「楽譜も読めない子もいたし、最初はまるで形にならなかった子どもたちを、なんとか金賞を獲らせてあげたいと思ったんですよね」
子どもたちを家に迎えに行って早朝から練習を行い、昼休みや放課後、土日にいたるまで指導をした。
そのおかげで3年目には県大会で優勝。4年目に九州大会で金賞を獲った。
「金賞を獲った時には、達成感がありました。
それと同時に、自分の役目も果たして、これ以上教師はやらなくてよいと感じたんです」
そして学校の教師の仕事はやめて、音楽短大での非常勤講師を続けるかたわら、自宅にマリンバを備えつけて、マリンバ教室を始めたのだった。
「マイナーな楽器で最初は誰も知りませんでしたが、終わりの頃には30 人くらいの生徒さんがいましたね」
当時はたった1枚持っていたマリンバ奏者の種谷睦子氏のCDを繰り返し聞き、種谷先生にレッスンをつけてもらうために、毎週奈良まで通った。
ツトム・ヤマシタと町おこしのプロジェクトを
ちょうど20代半ばの頃、ミカさんは天草五和町の和太鼓のプロジェクトに関わることになる。
町おこしの文化事業として、一般の人が参加する太鼓のグループを作るというもので、この「鬼の城パーカッション」というグループは、和太鼓のみならず、ドラムや銅鑼など和洋折衷のパーカッションを演奏するというユニークなものだった。
そして著名パーカッショニストであるツトム・ヤマシタに作曲を依頼。
ツトム・ヤマシタは譜面をおこさないので、ミカさんが京都まで通って、彼が目の前で叩くのを楽譜に書き起こして、メンバーに教えるという方法を取っていた。
「鬼の城パーカッショ二スト」の初演は1991年。
五和市にある鬼の城公園の完成イベントで、ツトム・ヤマシタも訪れ、5000人の観客の前で、レーザー光線も使った大がかりな舞台を披露した。
その時にツトム・ヤマシタが口にした、
「ミカ、君のエネルギーはとてもスペシャルだ!人が持ってないとてつもないエネルギーがあるね」
という言葉は、ミカさんにとって大きな支えとなった。
その後は奈良東大寺の公演でツトム・ヤマシタと共演、ハンガリーの演奏旅行にも出かけた。
ミカさんにとっては、海外に目を向ける大きなきっかけとなったプロジェクトだった。

演奏中のミカさん
幼い娘を残して、北米留学を
町おこしのプロジェクトを通して、私生でも変化があった。
「鬼の城パッカーション」のメンバーだったひとりの男性と親しくなって、ミカさんは27歳で結婚する。
彼は大きなみかん農家の跡継ぎだったが、夫からは「農業は手伝わなくていい」といわれて、音楽活動を続けたのだった。
そして同年に娘を出産。
そして生まれたばかりの娘が、まだ歩き始めてもいない時期に、大きなターニングポイントが訪れたのだった。
きっかけは、1991年に、「ネクサス」の公演を東京のサントリーホールに聞きに行ったことだった。
「ネクサス」はカナダの人気パーカッションアンサンブルだが、その演奏にミカさんは目からウロコが落ちるほどの感銘を受けたという。
「演奏に、肩の力がぬけた透明感があるんですよ。
日本の打楽器演奏とはまったく違っていて、いっぺんで魅了されました」
パンフレットにはメンバーのビル・カーン氏の住所がなぜか記されていた。ニューヨーク州のロチェスターだ。
そこでミカさんは思いきってビル氏あてに手紙を書く。
コンサートに感動したこと、そしていつかレッスンをつけて欲しいという内容だった。
いきなりミュージシャンに手紙を書くというのも大胆だが、当時のミカさんは夢中になると、まっすぐ突き進むところがあって迷わず行動に移してみた。
すると、驚いたことにビルさんから「オーケイ」の返事が戻ってきた。
なんとレッスンをつけてくれるという。
喜んだ美香さんだが、まだ娘が産まれて10ヶ月しか経っていない時期だ。
「まだ娘は歩き始めてもいない頃だったんですが、幸いなことに義母が面倒をみてくれるから行っていらっしゃいと送り出してくれて。夫も勉強なんだからと、背中を押してくれて。
家族に助けられて1ヶ月の留学をすることができました」
すでに熊本ではマリンバ奏者として知られた存在だったミカさんは、県からの助成金ももらうことができて渡米。
ロチェスターに住むビルさんのもとでパーカッションのレッスンを積んだ他にも、マンハッタンに住むマリンバ奏者に習うことができた。
—初めての留学で言語の壁はどうしたのですか? 英語が話せた?
「いえいえ、通訳をつけました。熊本から留学している学生の方がいたので、その方に通訳してもらいながらレッスンを受けました」
そしてアメリカで音楽留学して帰る頃には、「演奏家として生きていきたい」という思いが生まれてきていた。
天草に戻って教える事を辞めて演奏活動に専念しました。1998年にはアルバム「MITSUE 」をリリースしたが、もっと演奏を学びたい思いが高まり、35歳の時にカナダのトロント大学に留学することになる。
この時に娘はまだ小学校一年生。まだまだ母親が恋しい年頃のはずだが、祖母たちと一緒に美香さんを送り出してくれた。
「おかあさんがステージに立っていて、とってもかっこいい。
おかあさんのことが好き。
これからもわたしは、いろいろなことをがんばる。
おかあさん、がんばってね。
おうえんしているよ。」
と書いてくれた手紙をいまでも大切にしているという。
1年間の留学生活では、一日8時間の練習をして、マリンバに打ちこんだ。
トロント大学には「ネクサス」のラッセル・ハーテンバーガーも教授をしていて、「ネクサス」の全米ツアー、そして現代音楽作曲家のスティーブ・ライヒのツアーにも同行してプロの現場を学んだ。

パーカッショングループ、ネクサスのメンバーたちと
卒業試験では審査員に「パーフェクトマーク」をもらう演奏を披露できて、2000年、トロント大音楽学部上級演奏家コースを首席で終了。
この留学は、ミカさんにとっては、多くの出会いを生んだ。
ひとつがチック・コリアとの出会いだ。
チック・コリアのカナダ公演で、彼がマリンバを演奏したことから、公演後に興奮して挨拶をして、自分のCDを渡したのがきっかけになった。
「それから6年後エディ・ゴメスとスティーヴ・ガッドがチックと共演した時に私の事を楽屋でちゃんと紹介してくれて覚えてもらいました。
そして2009年に私がチックのギグにリチャードを連れて行ったら、チックがリチャードとの再会をとっても喜んでくれて、その後メールアドレスも教えてくれて、だんだんと親しくなったんです。
その都度『マリンバ作品を書きおろして欲しい』と頼み続けていました。

チック・コリアさんのバースデーを、ミカさんのアパートで開いた
そして2011年チックの70歳のバースデーパーティーを私のアパートメントでした時に、私のマリンバを見て演奏も聴いてもらって、ついに「マリカ・グルーヴ」という作品を書きおろしてもらったんです。
その世界初演を2012年カーネギーでした時は本人に友情出演もしてもらいました。
今はチック、奥様ゲールと私達夫婦は家族みたいな付き合いをしています」
2001年にはニューヨーク・カーネギー・ホール(リサイタル・ホール)、そして銀座の王子ホールでリサイタルを開催して、演奏家として進み始める。
2005年には全米打楽器コンベンションのマリンバ部門で選出されて参加。
そこでは神ドラマーといわれる、スティーヴ・ガッド氏と知りあった。
スティーヴのドラムに惚れこんだミカさんはここでも持ち前の行動力を発揮して、「天草の音楽祭に来て欲しい」とラブコールを送り続けて、それは3年後に実現する。
天草国際音楽祭「アイランド・マジック」だ。

ブルーノート東京にて。右からスティーヴ・ガッド、ミカ、エディ・ゴメス