30歳で大手企業を脱サラして、38歳で渡米した宮嶋みぎわさん。
プロとしては遅いデビューながら、すでにグラミー賞ノミネートを二回経験、自分のビッグバンドを率いてジャズの名門バードランドでの演奏、さらにアルバム『Colorful』をNYの著名レーベルから世界発売している。
いったいどうやってみぎわさんは夢を形にしてきたのだろう。着実に夢をかなえていく方法を語ってもらった。
迫力あるビッグバンドを率いる日本人女性
2017年7月、ニューヨークの名門ジャズクラブ『Birdland』(バードランド)。
その夜、17人の楽団員が奏でるジャズが、クラブいっぱいに響きわたった。大きな波のように、厚みのある音が押しよせてくる。ビッグバンドならではの迫力だ。
この『Miggy Augmented Orchestra』(ミギー・オーギュメンテッド・オーケストラ)を率いるのが、宮嶋みぎわさんだ。秋吉敏子さんの引退以来、14年目にして『バードランド』に立った日本人ビッグバンドリーダーとなる。
曲はすべてみぎわさんの作曲によるオリジナル。メンバーも全員みぎわさんが集めてきた選りすぐりのミュージシャンだ。
38歳で渡米してから5年も経たないうちに、華やかなバードランドで演奏を果たしたみぎわさん。彼女の道のりをふり返ってもらった。
6歳でサーカスを見て作曲
みぎわさんは物心ついたときには、お母さんの膝の上で、ピアノの音に触れていたという。子どもの頃の記憶をたどると、そこにはいつもピアノの音色があった。
「ピアノを始めたのは3歳です。3歳から母が家で教えてくれて、5歳から家のヤマハの音楽教室で習い始めました」

お母さんの膝に乗るみぎわさん
保育士をしていたお母さんは音楽好きだったが、戦後とても音楽を習えるような経済的余裕がなく断念。結婚後に念願のピアノを手に入れると、娘に弾き聞かせ、音楽に興味を示すみぎわさんをヤマハ音楽教室に連れていった。
「6歳の時、ある日サーカスを見に行って帰ってから、いきなり曲を作ったんですよ。奥にあるピアノの部屋にパーッと駆けていって。
サーカスを見て楽しかった気持ちを、話すのではなくって曲にしたっていうのは、やっぱりピアノが自分にとっての大事ななにかだったんでしょうね」
そのみぎわさん初の作曲がこの曲だ。
6歳にして、この曲を作ったというのはさすが才能の片鱗を感じさせるが、きっと楽しかったのだろうな、という気持ちが伝わってくる。この頃から、みぎわさんにとって音楽は気持ちを表現する手段だった。
そして15歳で中学生向けの音楽大会では、作詞作曲部門で全国優勝。新聞に載って地元の有名人になったほどの大ニュースだった。
だからといって小学生の時からミュージシャンを目指していたわけではない。
音大に行かずに進学校に
「幼稚園の時に、作曲家になりたい、といったんです。まわりの子たちがスーパーヒーローになるとかお嫁さんになるとかいっているなかで(笑)私はうちでモーツァルトの曲を聴いたり、ベートーベンの曲を聴いたりしていたから、ああいう人になりたいなあ、と思っていた。
そしたら先生におかしなものを見るような目で見られてしまって。あ、これは大人には受けいれないことをいったんだな、とわかったんです。
だから小学生くらいになったら、将来はピアノの先生になると書いていました。ピアノの先生が、現実に考えられる生き方だったから」
ピアノの先生はみぎわさんの才能を評価して将来は音大に行くことを勧めたが、中学でも高校でも、その進路は断った。
「音大に行ったら社会を勉強できないと思ったんです。他の勉強もしたいのに、なぜ音楽だけなのかと思った」
高校の時は音大に行くつもりはなく、進学校に通っていた。音楽は好きだけれども、仕事にするという意識はなかった。
—なぜ音楽家になろうと思わなかったんでしょう?
「まわりにそういうロールモデルがいなかったんですよ。茨城で育って、クラスの子たちの親の仕事というと、90%が日立製作所の人という環境で、大人になるというのは会社に入って働くことだと思っていました。ミュージシャンは別世界にいる人だと思っていた」
そしてもうひとつの理由として、みぎわさんには社会貢献意識が強かった。
「世の中をよくしたいと思う気持ちが強かったんです。わたしはクラスに50 人いたら、50人全員がそれぞれ幸せになるというのが気になるタイプ。誰もが幸せになるのは、何をしたらいいだろう。そのことを子供の頃からよく考えるたちでした」
そのためになにをしたらいいのかと考えあぐねた結果が、教育だったという。
「ひとりずつが自分で幸せを見つけられるように、教育をすればいいんじゃないかって思ったんです」
そして上智大学文学部に合格。教育学部を専攻する。茨城から上京して、文京区にある女子寮で生活をスタートしたのだった。
当時のみぎわさんは虚弱体質で、夏休みがあってもほとんど寝込んでいたという。大学での同好会に参加する体力すらなかった。
「高校の時にピアノに一切触れないと決めた時があったんです。そしたら本来音楽が好きなのに、アイデンティティが崩壊してしまって。ピアノを触れない、見ることもできない時期があったんです」
大学でビッグバンドジャズとの出会い
その運命を大きく変えたのは、大学2年生の春のことだ。
「ある日学食で食べていたとき、親友から『みぎわは音楽をやっていないから虚弱なんだよ、音楽から逃げている!』ってバシッといわれたんです。
それならクラシック音楽じゃないことをやればいいんだよ。ジャズをやったらいい! ていわれて」
そのまま強引に手をひっぱられて、学食から新入生勧誘をしている同好会が立ち並ぶエリアに連れ出された。そして友達がジャズサークルの幟を見つけるなり、その同好会に連れて行かれた。
「この子がジャズサークルに入りたいそうですって、友達が勝手にいって(笑)
この子は15歳で全国優勝しているし、ピアノも3歳からやっているしって、どんどん話してくれて」
同好会からは「ぜひ入って欲しい」と勧誘され、デモテープを渡された。それが上智大学ニュースイングジャズオーケストラだった。
「デモテープを聞いたとたん、なんじゃ、これはーッ! て、カミナリが脳天にドーン! と落ちたようになって。こんなカッコいい音楽がこの世にあるんだ−! と衝撃を受けたんです」
運命のビッグバンドジャズとの出会いだった。さっそくサークルに加入すると、虚弱体質が2カ月くらいで治ってしまったという。
「そこから今のパワフルなわたしに変わりました。好きな音楽を始めてから、すっかり元気になったんです。妹からは、お姉ちゃんの人格が変わってしまってイヤだ、といわれたくらい(笑)」

上智大学のニュースイングジャズ同好会で演奏
それまでクラシック一辺倒だったので、みぎわさんはジャズを独学。当時はジャズの教則本を出している本が1冊しかなかった。ジャズピアノを習いに行ったり、音源をマネしたり、勉強になるありとあらゆるものを試した。その頃はカセットテープとCDしかないから、聴き取り学習が今に比べるとたいへんで、聴きながら集中力が鍛えられたという、
「独学がいかにたいへんだったかという苦労を知っているので、日本でジャズを勉強したいと思っている若い人たちに教育をしてあげたいという、のちの気持ちにもつながっていきました」
そしてジャズを独学したみぎわさんは、学生ビッグバンド業界で、徐々に人気ピアニストになっていく。定期演奏会やジョイントコンサート、コンテストと活動の場を広げていった。
「毎回、コンサートのあとに出待ちの人がいましたね。私は決してうまいわけではなかったけれど、狭い学生ビッグバンドの世界では魅力的だったのだろうと思います」

大学時代に、ビッグバンドジャズのコンテストに参加。
リクルートに就職。自分のバンドで大バッシングを
そんな大学時代も卒業と共に終わったが、プロのミュージシャンを目指すのは考えられず「とにかく仕事を持たなくては」と、就職をした。
そこで選んだのが、リクルートだった。
「世の中に溢れる情報を、その人にとって一番必要な情報を取りやすい形に並べかえるのが、リクルートの仕事だったから、世の中に役立つと思ったんです」
世の中の人々に喜びをもたらしたいとリクルートに入社。住宅情報、じゃらんの編集部とデスクをやった。
それと同時に、社会人2年目からジャズのビッグバンド活動も始めた。
学生時代にジャズでつながったメンバーによる社会人バンドを編成して、16人編成の『ミギー・オーギュメント』としてデビュー。みぎわさんのオリジナル曲を演奏した。
ところが初めは激しいバッシングにあったという。
「当時のジャズといえば、アメリカ人のモノマネをするというのが、本場のジャズに対するリスペクトだと考えられていたんですよ。デューク・エリントンのような有名ビッグバンドミュージシャンが作曲した曲を、演奏するのが正しいジャズだと考える人が多かったんです」
みぎわさんがオリジナル曲を作って演奏することに対して、旧世代のマニアックなジャズファンたちがいっせいにバッシングした。
いわく「ジャズにリスペクトがあったらオリジナルなんて作らない」「ジャズを冒涜している」「小娘にジャズのことなんかわかるか」「プロでもないのにオリジナルなんて百万年早い」「おまえたちはデューク・エリントンのコピーバンドをやっていればいい」
そうしたバッシングの嵐に、「ピュアッ子だったから、最初は傷つきましたね」とみぎわさんは苦笑する。
しかし一方で、若い世代にはこんな変わったことやるなんて最高! と熱狂的に支持された。
最初の5年間は、バッシングおじさんと熱烈なファンという構図だった。
「最初は作曲もヘタでしたね。作曲は楽器の音域を考えて書かなくてはいけないのに、そんなことも念頭に置いていなかった。楽譜を渡すと、これはトランペットではなくてサックスのほうがいいと思うよ、といわれたりしてね。アレンジの書き方もわからないから、メンバーが手伝ってくれました。
彼らがいなかったら、今のわたしはないです。一生の友達だと思っています」

社会人バンドをしていた頃のみぎわさん
心に浮かんだものを音楽にする。心と音楽がつながっている。それは6歳のとき初めて作曲した日から、みぎわさんにとって変わっていない。
「音楽はランゲージです。曲にするための文法があって、気持ちを曲にする。私にとって音楽は心と一体化しています。
あせる気持ちを曲にした『焦燥』という曲を作ったこともあったんですが、演奏したら、みんな、ああ、あるある、こういう気持ちって(笑)
そしていつもメンバーのこういうところを生かしたいと思って作曲してきました。誰でも吹けるものではなく、そのメンバーだから吹いてもらいたいという曲。だからメンバーも喜んで吹いてくれたんです」
そして5年目には東京でもっとも人気があるビッグバンドのひとつになり、なかでもジャズクラブの東京TUCは重要なステージとなった。
「ブッキングマネージャーが、あなたはプロとしてやっていける人だから、プロとしてブッキングします、と初めていってくれたんです。生まれて初めてプロとしてブッキングされて。ほんとに嬉しかった」
そう語りながら、涙ぐむみぎわさん。今でも東京TUCは、日本に戻ったときに欠かせないステージだという。
直感で音楽の道へと選んで脱サラ
社会人の仲間と社会人バンドをしていたみぎわさんだが、だんだん仕事との齟齬を感じ始めた。
「リクルートで編集デスクをやったら、世の中をよくする仕事をできると思っていたんですよね。ところが実際には、町おこしを考える特集は売れず、売れるのは温泉デート特集といったものばかり。
有名誌の編集デスクにいる。世の中に発信できる。こんなにいいポジションなのに、なぜやり甲斐がなくなったのだろうと思い悩みました」
いっぽうバンドではステージでメッセージを伝えることができる。聞いてくれた人が涙を流してくれる。
「音楽なら世の中にメッセージとして伝えることができる。あきらかに音楽のほうが、自分の持っているメッセージを伝えられる。私はそういう人間だとわかったんです。
いったん決めたら、辞めるのにためらいはありませんでしたね。直感で決めて、こっちに行ったほうが正しい気がすると思ったんです」
そして2004年30歳で退職した。リクルートでは、退職者が「自分は退職したあと、こういうことを世の中にしていきます」と決意表明をする論文を出す制度があり、優秀者は追加の退職金をもらえるという報奨金があった。
「そこで『ビッグバンドで世の中を変えます』という論文を出したんですよ。そしたら追加の退職金をもらえて。やったー!と(笑)この退職金で、アメリカに何度も来ることができたのだから、リクルートには今でも感謝しています」
—大手企業を辞めることで、将来の不安はなかったですか?
「退職金があったから、つつましく暮らせば3年くらいは暮らせる。音楽家でやってダメだったら、仕事を探せばあるだろう、絶対大丈夫だと思っていましたね。
実際に辞めてから、だんだんと貯金が減ってくると、ものすごく不安になっていきましたが」
サラリーマン生活を辞めてから、徐々にピアノを教え始め、作曲を教え始め、そしてビッグバンドを教えるという仕事が増えていき、音楽コンテストの審査員の仕事を引き受けるようになった。
そして人生を変えるような出来事が起きたのは、2008年のことだった。
その年の2月、みぎわさんは初めてニューヨークを訪れた。
伝統あるヴァンガード・ジャズ・オーケストラが一週間公演することを知って、その公演を見るためにニューヨークを訪れたのだ。2月の極寒のニューヨークで、いちばん前の席に座るためにドアオープンの1時間前から並んだ。
ここで運命の出会いが起きたのだった。
以下、後編に続く。

マンハッタンの教会の前にたつみぎわさん