photo Courtsey of Asako Tamura
ニューヨークタイムズに「輝く声」と賞賛されたソプラノ歌手、田村麻子さん。ニューヨークを拠点に世界各地で活躍するディーバだ。
わたし自身が田村麻子さんの歌声をいちばん最初に聴いたのは、あるチャリティの会場だった。その時に驚いたのが、部屋の窓ガラスが、びりびりと震えるほどの音量だったことだ。
これが世界で活躍するオペラ歌手の声量なのか、と驚愕したのを覚えている。
ロンドンのアルバートホールでは『蝶々夫人』を演じ、メトロポリタン歌劇場管弦楽団、BBC交響楽団、ローマ祝祭管弦楽団、LAシンフォニー、シカゴフィルなど多くのオーケストラから招聘されて共演している。
まさに「世界の歌姫」というにふさわしい。
しかしその陰には人一倍、苦労も挫折もあった。そんな麻子さんの道のりをロングインタビューで語ってもらおう。

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歌が大好きだった幼児期
麻子さんは京都府の郊外、城陽市に生まれ育った。父親はサラリーマンで、母親は専業主婦という典型的な昭和の家庭だった。
「歌が大好きでいつも歌っていたんです。ちっちゃいときは朝から晩まで歌っていました」
歌っていたのは、童謡とかテレビアニメの曲で、50曲ほどレパートリーがあった。
「2、3歳の頃に京都から東京まで新幹線で行ったことがあったんですが、その間ずっと歌っていたんです。途中の駅で降りるおじさんが、上手だからと100円くれました(笑)」
麻子さんの音楽に対する愛は、生まれつきのものだったらしい。ガブリエル・フォーレ作曲の『レクイエム』を、お母さんが好きでよく聞いていたが、ゼロ歳の頃から麻子さんは歌に惹かれていたという。
「レイクエムには天上的な美しさのソプラノのソロのパートがあるんですけど、そのパートになると、這い寄ってきてスピーカーにくっついて聞いていたらしいんです」
お母さんは女優になりたかったものの、その夢は果たせず、卒業後は就職して秘書を勤め、職場の演劇サークルで知りあった男性とゴールインした。
両親が演劇サークルで出会っただけあって、芝居や歌がつねに満ちている家庭だったという。家族で、よく芝居を演じることもあった。
「田村家劇場をやっていて、『三匹の子ブタ』や『赤ずきん』を、家族みんなでパートをわけて演じて、クリスマスやお正月に放送劇をしていました。
今でも田村家ライブラリーには、その放送劇が残っているんですよ(笑)」
お母さんはかつて同志社女子大コーラス部に属していて、子どもができたらピアノを習わせたいと考えていたらしい。
24歳の時に長女である麻子さんが生まれ、若いお母さんはすべての情熱を娘に注いだ。

お母さんと七五三に courtsey of Asako Tamura
涙の染みだらけになった鍵盤
麻子さんは4歳の時にヤマハ音楽教室でピアノを習いはじめたが、たちまち吸収してしまい、つぎに街のピアノの先生のところに連れて行かれた。すると、先生が才能を見ぬき、熱心な授業を受けることになった。
当時、城陽市内には芸大を出た先生がひとりだけいて、そこに週に一回通って門下生となった。当時のレッスン代が1時間1万円と高額だったという。
「毎日ピアノの練習していました。母が必ず隣に座って、その弾き方は違うでしょう、先生にいわれたのはこうでしょうと、レッスンした時に取ったメモを見ながら、指導してくれて、みっちり練習させられました」
練習量は小学校1年生では1時間、2年生になると2時間、3年生になると3時間、4年生になると4時間以上に増えていった。
「母はまだ若くて気力があったから、私に一生懸命で。私は叱られて泣きながら練習をして、ピアノの鍵盤が涙のシミだらけでした。
でもクラシックの人は、だいたいみんな似たような感じだと思います。子どもはディシプリン(鍛錬)がなければ演奏できるようにはならない。泣いたらやらなくていいよ、といってくれる親だったら、ピアノが弾けるようにはならなかったと思います」
テレビから流れてくるコマーシャルでも曲でも、5、6歳くらいから、耳コピーでまねすることができた。
「そういう好きな曲の耳コピーは遊びでやっていて、自分の仕事はピアノだと、子ども心ながらに思っていました。
勉強についてはなにもいわれなかったけれど、たとえばテストで99点を取ったら、なぜその1点が取れなかったの、という親でしたね(苦笑)
バレエをやりたい、スイミングをやりたいといっても、ピアノの練習があるからだめ。熱を出して学校を休んでも、レッスンは休みませんでした。
母は先生に対しても、うちの子は特別だから、ピアノのために早引きしてレッスンすることがありますと説明していたくらいです」
他人と同じことをしていたら、他人と同じにしかならないのよ。麻子はすごいのだから、がんばりなさいと、お母さんに叱咤されて練習に励んだ。
—その頃から麻子さんはピアニストとしてプロを目指していましたか?
「親を喜ばせたいという気持ちが多かったんだと思うんです。私は5歳の時に、東京芸大に行ってピアニストになるといっていたんです。親のいうことをそのまま信じていました。
海に遊びに行っても、ピアノのあるホテルに行って、毎日練習していました。親戚の家に行ってもピアノを借りてもらって練習していました」

ピアノに向かう小学生時代の麻子さん Courtsey of Asako Tamura
天才児は親と教師が作るもの
クラシックの世界では、毎日新聞が主催する全国学生コンクールが、当時大きな登竜門となっていた。
「中学に上がるときに、グラントピアノを買ってもらったんです。ピアノに本気モードになったという感じでした」
5年生になって、そのコンクールに出ることは麻子さんにとって晴れがましいことだった。コンクール前には学校を一週間休んで練習に打ちこんだ。
「クラシック界では、天才児と呼ばれるような子が出てきます。世の中では、天才がたまたま生まれるものと思われていますよね。でも違うんです。先生と親がプロディジー(天才)を作る。
天才児というのは、なにも持って生まれたものではなくて、これをさせて、あれをさせてというのがわかる人によって作られるものなんです。
モーツァルトにしても天の才は持って生まれたにせよ、親の訓練がなかったら、ああいう天才にはならない。反対にいえば、モーツァルトほど天の才が与えられた人も、あの時代に他にもっと生まれていたはずだけれど、出てこなかった。
親が何をどうやればいいかわかっていて、教師と一緒に作らないと、天才児は生まれません」
当時めざしていたのが、東京にある芸術高校だった。そのために中3になってからは2週間に一回東京にレッスンに行くようになった。日曜にはソルフェージュをやった。
レッスン料が1回3万円、母親と二人で往復の新幹線代、ホテル代と考えれば一回の上京で10万円は飛ぶ。それを月2回やっていたのだから、ふつうのサラリーマン家庭にはたいへんな支出だったろう。
「それだけお金をかけていたから、親も真剣にならざるを得なかったと、今にして思います」

Courtsey of Asako Tamura
14歳で人生が崩壊する挫折を
そして芸高を受検する前に、東京の偉い先生に見てもらう機会があった。そして麻子さんのピアノ演奏のあと、先生がこう告げたのだった。
「あなたはすばらしいものを持っているんだけど、手が小さすぎるのよ。道具が揃っていない。おすもうさんは背の高さと、体重が揃っていないとできないでしょう。あなたも手が小さいからピアニストになれないのよ」
いわれた瞬間、麻子さんはショックのあまり、先生の前で泣き出してしまった。
手が小さいのは麻子さんの悩みであって、手が大きい人なら簡単にできるものでも、何十時間も努力をして弾きこなしてきたのだった。
その弱点を指摘されて、麻子さんは号泣した。先生は同情したものの、こう諭したという。
芸高に行く人は、1次試験では弾けるかどうかをチェックする、2次では内面と表現力を見る。あなたには2次に大切な内面の表現力があるけれど、1次は通らないと思うよ、と。
「目の前がまっ暗になりました。芸高、芸大に行くことだけを目的に生きてきたから。それで親がせめて受験だけはさせてください、と頼み込んで、受験はできることになったんです」
そして芸高の受検に挑んだが、残念ながら得意の曲は課題曲に出ず、1次であっけなく落ちた。
「落ちた瞬間、14歳で人生終わった、と思いました。大げさではなくて、本当に。それまで子どもらしい遊びもできず、夏休みも返上して練習してきたのが、手の大きさを持っていないだけで落ちてしまった。自分のアイデンティティも壊れたような感じでした」
その頃ちょうどお父さんの東京転勤にともない、一家で京都から引っ越し、東京住まいになった。
芸大のピアノ科をめざしても同じことが3年後に同じことが起こるかもしれない。
そう考えると悶々として、都立校に通いながらも先が見えない高校生活を送りはじめた麻子さんだった。
オペラとの出会い
そんな時に転機が訪れた。お母さんに連れられて、劇団四季の「青い鳥」を原作としたミュージカルを観に行く機会があったのだ。
舞台を観たとたん、たちまち夢中になった。こんな世界があったんだ、とその魅力にはまった。
ピアノではなくて、ミュージカルもいいかもしれない。
そんな麻子さんに、「歌が好きだったら芸大の声楽科に行けば?」とお母さんが提案した。
そこから麻子さんの方向転換が始まる。
高校2年生で、声楽の先生について歌を習い始めてみると、声楽の世界は、それまでのピアノの世界とはまったく違っていた。
ピアノの世界では3歳くらいから練習をしなくてはものにならないが、歌の世界は声変わりが終わった10代後半から始めるのが一般的だ。
子ども時代のディスプリンがなくて音楽を始める声楽の世界は、麻子さんにはずっと自由に感じられた。
「ピアノの楽譜だと、音符ひとつのことでも何百年も学者が論議していたりして、とてもこだわるんです。ところが声楽では、この音出ないからカットするといったように、作曲家が書いたものを勝手に変えているというのが驚きでした」
そして本場イタリアのオペラを鑑賞しようと、NHKの放映を見たことが、運命を大きく変えた。
レナータ・スコットがソプラノを演じたドニゼッティの「ランメルモールのルチア」を見て、体が震えるほどの衝撃を受けた。
「まるでカミナリで打たれたようなショックでした。人間ってこんな声が出せるんだって驚いてしまって。まるで血が逆流したような感じでした。その瞬間から、こんな感動を与える人に私もなりたいと思ったんです」
すぐさまイタリア語を習おうと思いたち、その足で本屋に出かけてイタリア語を独学する本を買ってきた。
最初の芸大受験の時は声楽科を受けて、声楽を始めて間もないのに最終試験まで残ることができた。翌年こそは、とやるき気まんまんだった。
ところが毎日、熱心に7時間も8時間も歌って練習をしていたら、突如、音声障害を起こしてしまったのだった。
音声障害を乗りこえて芸大へ
麻子さんは練習熱心のあまりに脳とのコネクションがうまくいきなくなって、うまく声が出なくなってしまったのだった。
「へんな声で唄っているので、親にもふざけているのかと思われたんですが、こういう声しかでなくなっちゃったの、と思わず泣いてしまったんです」
音声障害を抱えながらも、浪人後の受験では国立音大のピアノ科と声楽科に両方受かった。そして声楽科を専攻する。音声障害は25歳でようやく治った。
麻子さんの当時の強みは、ソルフェージュ力があり、かつピアノが弾けたことだ。
「楽譜のキイをすぐに変えたり、どのように弾けば歌いやすいかを熟知していたりしたため、先輩たちの伴奏をすると、喜ばれました。彼女に弾いて貰うと、コンクールに入賞しやすいといわれたくらい」
大学4年生の時には、成績トップの学生として選ばれて、世界最大の音楽祭のひとつであるザルツブルグ音楽祭に参加したが、当時はまだ海外で競っていく自信がなく、もっと日本で勉強するために芸大の大学院に入った。
そのことを誰より喜んだのは、お母さんだった。
「私の人生最良の日。芸大に入ってくれて、長年の夢をかなえてくれた」
と大喜びしてくれた。
芸大に行くというのは、母の夢がかなったということでもあった。すべてを親の希望通りにやってきた麻子さんにとって、その頃から遅すぎる反抗期が始まった。
ドミンゴ国際コンクールで入選
そしてロータリー日本財団の奨学金を得て、イタリア留学の準備に着手した時期のことだ。
26歳の時にプラシド・ドミンゴ国際オペラコンクールが東京で開催され、最年少で入選するという快挙を果たす。
入賞した麻子さんに、かのドミンゴ本人が直に会って、こうアドバイスを与えてくれたのだ。
「あなたはダイアモンドの原石だから、あせって歌わなくていい。英語が必要だし、海外に早く出るべきだ」
麻子さんが「イタリアに行くことに決まっている」と話すと、「アメリカに行ったほうがいい」と助言された。「アメリカにはオペラを学ぶメソッドがある」と。
麻子さんにとっては子どもの頃からヨーロッパが憧れの地であって、アメリカは考えてもいない場所だった。
しかしオペラの伝統の地イタリアではイタリア語ができて当たり前であり、オペラについてもあまりに浸透した芸術であるため、外国人にとって系統だって学べるメソッドがなかったのだった。
はじめての独り立ち
そこからアメリカに留学先をシフトする。
マンハッタン音楽学校とジュリアード音楽院にも受かったが、そこでは最初の一年は英語のクラスを取らなくてはならない。一方、もうひとつ受かったマネス音楽院では奨学金ももらえることができた。
「母に話したら、やっぱりジュリアードがいいんじゃないのっていうんですよね。ジュリアードの名前は有名ですから。
でもその時に私はマネスをとって、ジュリアードを蹴ったんです。それは親を蹴ったのと同じ。正直にいえば、爽快でした」
初めて親の希望にノーをいった。
それまで母親がいうままに従っていた麻子さんだったが、ようやく20代も後半になって、親のいうこと聞いていた自分と決別できた。

NYに来た頃の田村さん(左)Courtsey of Asako Tamura
そしてロータリー日本財団にアメリカへと留学先の変更をしてもらって98年に渡米する。
そこで麻子さんを待っていたのは、想像をはるかに超えた実社会での試練だった。
後編に続く。