Cover Photo: Hurricane Sandy aftermath in Staten Island  © Erik Mc Gregor
Erik Mc Gregor is a masterful photographer, artist, and involved activist, who also volunteered for disaster relief after Hurricane Sandy.

「NYCでは、人々は自分たちで人々を養う」と書かれたサイン。ハリケーン・サンディ来襲の被災地で。撮影は、写真家、アーチスト、活動家のErik Mc Gregor。オキュパイ・サンディでもボランティアに精を出した。

Hurricane Sandy relief at Rockaway – Veggie Island.  Copyright by © Erik Mc Gregor – [email protected]

[ セレブの小部屋  No.75 ]  by Yuka Azuma

動力となったのは、助けたいという人々の思い。

いま、日本では、台風で被災された方々への政府からの支援がうまくいっていないと聞く。ニューヨーク市でも、大型のハリケーン・サンディが私たちを襲った際、停電にまつわる支援、掃除、救援物資の配給などは、政府機関よりも、人々が作り上げたコミュニティが早くやってのけた。

被災者たちを助けたい。これは、そんな人々の思いが、政府機関よりも迅速に、効率的に機能した例だ。

率先したのは、「Occupy Wall St!」と、99%の市民のために抗議活動を展開していた「オキュパイ・ウォールストリート」活動家~オキュパイヤーたちのコミュニティだった。オキュパイ運動は、2011年9月17日、ニューヨーク・ウォール街に位置するズコッティ・パークに集まった有志たちが「ウォール街を占拠せよ!」と声をあげ、特定のリーダーなしに世界へと広がっていった運動だ。彼らは、1パーセントのトップの富豪たちだけが潤う社会に抗議する活動家たちだった。

ハリケーン・サンディがNYを襲ったとき、そのオキュパイヤーたちが真っ先に行動し、救済を素早く成功させたのだ。

彼らが運営した「オキュパイ・サンディ」は、赤十字や米連邦緊急事態管理局よりも迅速に機能し、救済活動を大々的に展開し、オキュパイヤーたちと一般の心優しいボランティアたちが一緒になって、寄付者たちの協力も得て、物資配給や掃除サービスが誰をも取り残さず実行されていったのだ。

エレベーターが停電で動かないコニーアイランドの高層ビルの何十階もの階段を上り下りして、上階の住人らに薬などの必要物資を届けに走ったフィットな若者たち。グループで掃除道具を抱えて瓦礫化した見知らぬ人たちの家を一軒一軒回って掃除に明け暮れたオキュパイヤーたち。普段、一緒に抗議活動をしていた仲間たちが、救済チームとなって各地で働く姿を目の当たりにして、私はとても感動した。

Hurricane Sandy relief team at Rockaway.  Copyright by © Erik Mc Gregor

ハリケーン災害時、赤十字などの大きな組織はどこも出遅れ。
もう、笑うしかないが、FEMA/米連邦緊急事態管理局のNYオフィスには「天候のため、休業」という張り紙が貼られる始末だ。人々を助けるためには、人々が立ち上がるしかなかった。

©Stacy Lanyon 「サイン:人々が動力となった復旧、オキュパイ・サンディ」

人々が動力となった復旧、オキュパイ・サンディ

2012年10月29日、ニューヨークをはじめとする米国北東部を襲ったハリケーン・サンディ。その翌日、ニューヨークのオキュパイヤーたちはハリケーン・サンディ被災者支援をスタートした。オキュパイ運動発祥の地に集まった6人。まず彼らが救援対策としてやったことは、ハリケーン救済活動用のセンターとなる場所を探すことだった。

彼らの交渉のおかげで、NYブルックリンのサンセットパークにある聖ヤコービ教会(St. Jacobi Church)の敷地が、最初のハリケーン対策本部となり、「オキュパイ・サンディ」が、ボランティアだけの手で発足したのだ。

彼らは、その救済活動の中心となる場所を“ハブ(hub)”と呼んだ。

ハブには人が集まった。コンピューターに強いオキュパイヤーが即座に「オキュパイ・サンディ」のサイトを設置し、ソーシャルネットワークを利用して、ハブに届けて欲しい物資リストなどの情報を人々に発信した。情報の掲示板としてインターネットが役立った。

ボランティアしたい人は、ひとまず、このハブ、聖ヤコービ教会へ向かう。
オキュパイ運動に関わっていた私は、もちろん、そこへ足を運ぶ。教会の入口前には子供用の小さな机があり、誰かがいつも待機していて、ボランティア希望者や寄付を届けに来る人たちの窓口になっている。

その木机の上に置かれた銀色のダクトテープに自分の名前を書いて切り取り、服の上から胸に貼る。これで、ボランティア同士が名前で呼び合える。そして、まずはボランティアのためのオリエーテーションに参加する。今日はどれくらいの時間を割けるかを聞かれ、それによってグループを別にしていた。

何をしていいかわからないがとりあえず集まった人々に向けて、しっかりした若い女性が教会の講堂で、きびきびと説明してくれた。彼女はボランティア窓口に向いている才能を活かして、無償で一日中そこで働いている。

みなさん、今日だけでも歓迎です。
でも週2日以上、働けると助かります。

これは、これからも長く、続いていく救済活動だからです。

ある部門を担当している者が、仕事に行かなくてはならない日もあるので、同じ部門を何人かが担当できると助かるのです」と、彼女は、キビキビと語り続ける。

住宅訪問では、どの災害者が何を必要としているかをメモして私たちに知らせてください。
私たちのフリをして強盗にはいる人たちもいるため、住民はドアを開けたがらないときもありますから、覚悟してください。

撤去作業で“このソファも外に出しますか?”とボロな古いソファをゴミとして指したら、じつはそれは家族が使っていた必要な家具だった、という場合もあります。いろんな人がいます。なので、自分のスタンダードでものを見ず、人には親切に

そんな重要なポイントの説明を一通り終えると、彼女は「ここに、ガソリンのはいった車のある人はいますか? 車はないけど運転のできる方は?」と、聞く。「では、あなたたちはすぐ外に出て、そこにいる“アン”から指示を受けてください」と、手をあげた人たちに指示。

ここに、エンジニア、建築の技術のある方はいますか?」と、質問が続く。
医療関係に強い方は?
ロシア語の話せる人は?(被災地ロッカウエーとコニーアイランドは英語の話せないロシア系移民が多く住んでいるため)」

そうやって、この教会から各地の被災地へボランティアがタコの足のように手際よく伸びて派遣されていくのだ。

オムツや水を被災者に運ぶ自転車ライダーたち。後ろに並んでいるのは被災地へ行く車を待っているボランティアたち。Photo by Yuka Azuma 

自分の技能が必要とされる場所へと、どんどん手配され去っていくボランティアたちを横目に、なんの技能もない私は、掃除をやる覚悟で自分の出番を待つ。

そして、「キッチンで働きたい人は?」と聞かれて、腰をあげた。

聖ヤコービ教会の斜め前にある教会の地下にあるキッチンを使わせてもらえることになり、そこには缶詰、パン、パスタなどの寄付品が積まれていた。私はそこで見知らぬ人たちと共に、いくつもの豆の缶詰を開け、200近くのサンドイッチを作って箱詰めした。
奥では、いかにも腕前の良さそうなクックたちがベジテリアンのスープやチキンなどを本格的に料理していた。それらをガソリンのある車(ガス欠が深刻な問題だった)を持つ者がやってきて、各被災地へと運んでいく。

筆者はボランティアたちと、ここで料理をした。 Photo by Yuka Azuma

リーダーのいない組織だといわれる「オキュパイ」運動だったが、人々の力で、それぞれの得意分野を自然に発揮して、ハーモニーを持って、スムーズに運営されていたのだ。何百というボランティアがやって来て、「チャリティ」でなく「相互扶助/Mutual Aid」の精神で助け合う。これこそ、99パーセントを代表するオキュパイの精神だ。

最初に門戸を開けて、場所を使わせてくれた聖ヤコービ教会付近だけでなく、各地でローカルにサポートできるように「オキュパイ・サンディ」はあちこち別の場所にも“ハブ”をオープンしていった。
コミュニティ・センターや教会や個人の店舗やギャラリーなど、ボランティアたちが交渉して、どんどんハブを広げて設置していったのだ。

YANA – You Are Never Alone. Photo : YANA facebook

あなたは決して一人じゃない。

ハリケーンの災害がひどかったクィーンのロッカウエー半島では、住人のサルヴァトーレ・ロピーゾ(Salvatore Lopizzo)氏が小さなコミュニティ・センター「YANA (You Are Never Alone)」をオープンしたばかりだった。その彼の建物にも4フィート(約1.2m)高の汚れた海水が流れ込んだ。

僕は疲れ果て、打ちのめされていた。何ヶ月もかけて築きあげてきたスペースだったのに、なんということだ。横にいる友達が言ったさ、”もうお終いだ”、ってね。僕はマントラを唱えた」と、サルヴァトーレは語る。

すると、そこにオキュパイの24歳の若者が自転車でやってきて、水浸しになったうちのセンターの掃除を手伝ってくれた。そして、彼ともう一人が聞いてきたんだ。この場所をハリケーン救済センターにしないか、とね。
助かったよ。それから起きたことは歴史的だ

そうやって、深刻な被害を受けた被災地に「YANA (You Are Never Alone)=あなたは決して一人じゃない」という、人々の心に響く名前のハブが誕生したのだ。

そこから多くの支援が、もっとも援助が必要な被災者へと配給され、YANAはコミュニティの中心地、人々の希望の場となった。

(人々がパワーを持つコミュニティを目指しスピーチを行うYANAのオーナーのサルヴァトーレ・ロピーゾ氏)

 そして、YANAにはソーラー・パネルをつんだ「グリーンピース」のトラックがワシントンDCから駆けつけてきて、その敷地に設置され、太陽光が住民のための電気となった。

Photo by Greenpeace

 

一方、やはり沿岸沿いで浸水被害がひどかったブルックリンのレッドフック地区のハブでも、多くのボランティアたちが働いていた。
彼と組んで、物資の配達に行きたい人は?」と、聞かれて、「イエス!」と手をあげた。安全のため、物資配達は2人以上で行うのがオキュパイ・サンディの決まりだ。見ると、その日の私の使命のパートナーとなるボランティアは、イケメンだった。意外なところから、楽しいことは舞い込んでくるものだ!

こんなことでもなければ話をすることもなかったであろうイケメンの小綺麗な車に乗りこみ、2人で物資の集められたレッドフックの教会に行き、できたての食べ物やジュース、オムツ、電池、水などを積みこみ、オガナイザーから渡された各住所に届けに行った。

レッドフックの低所得者用の公共団地では、私がたまたま小さな懐中電灯を持参していたのが役に立った。昼間なのに、廊下は窓一つなく停電になるとお化け屋敷のように真っ暗で何も見えない。フラッシュライトで部屋番号を探し、物資を必要としている人のドアを叩いた。暗い部屋には小さな子供もいて、彼らは災害前から物資が足りない人たちのようだった。そんな彼らに暖かい食事やオムツや電池を渡せたことに私は感謝した。

ユニセフなどの大組織に寄付するのとは違って、オキュパイ・サンディへの寄付は100パーセント直接、困っている人たちに使われていくのが目に見えた。

忙しく働いてくれているボランティアのために手作りの寿司を差し入れすることくらいならできる、と思って私は行動を始めた。ところが、ボランティアの受け入れ体制を即座に築き上げてくれたオキュパイヤーたちのおかげで、彼らの指揮のもと、できることが目の前に広がっていったのだ。無力でなにもできないと思っていた私でも、大型ゴミをみんなと一緒に運んだり、別の教会に行って寄付された洋服やブランケットを整理したり、無料で住人にディナー配布するコミュニティ・センターの掃除など、1日3時間くらいで、できる仕事は多くあった。

救援物資を一緒に運んだイケメンは、「これは自分のためにやっている」と、言っていた。「何もしないと罪の意識を感じて眠れない。こうやって少しでもヘルプすることで気分が良くなるから」と。

私自身は、何もしなくても罪の意識は感じない性格だが、同じく「これは自分のためにやっている」ことだった。ただ自分がやりたいことを、やってるだけのこと。これこそボランティアだ。だから、やらない人たちに対しても腹はたたなかった。でもその分、人々や動物を助けるために一生懸命働いてくれている人たちへの感謝は、自分の胸中にしまいこめないくらい溢れ出た。

若者はもちろん、年配の人も、身体的障害のある車椅子の人も、そしてオキュパイ運動など耳にしたこともない多くの一般の人たちも、困っている人のために何かしたいとボランティアにやって来た。9・11事件の直後の空気でも感じたことだが、ニューヨーカーたちはクライシスの後、団結して優しくなる。惨事さえ、何かポジティブな良いことへの機会へと変えていく力を、私たちはみんな持っている。

ブルックリンのハブ。外には寄付の衣類が出されている。 Photo by Yuka Azuma

著名人もやってきた。俳優ベン・スティラーもブルックリンのハブにやってきて食事配布をやったし、女優パトリシア・アークエットも「オキュパイ・サンディ」のボランティアに賛同して、物資配達などをやった。

オキュパイ・サンディの活動家たちのように真に人々のことを思い、コミュニティを築いていく”草の根運動”が素晴らしい救済をしている」と、パトリシア・アークエットは語った。

ハリケーンから約1ヶ月後の感謝祭の日には、「オキュパイ・サンディ」は1万人以上の食事を無料配給した。

そして、同時期、「オキュパイ・サンディ」は11月いっぱいで、中央対策本部として機能していた聖ヤコービ教会から出ていかなくてはならなくなった。オキュパイヤーたちは「代わりとなる場所をだれか知らないか」と、Facebookやツイッターで、問いかけた。彼らは、これは長く続く救済であることを心得ていた。

ブルックリンのレッドフックでボランティアを申し込むボランティアたち Photo by Yuka Azuma

抗議デモで何千というオキュパイヤーたちを逮捕してきた当時のニューヨーク市長ブルームバーグさえも、あまりに顕著だった「オキュパイ・サンディ」の活躍を認めないわけにはいかなかった。その年12/1日(土)に被災地ロッカウエーを訪問した市長は、オキュパイヤーたちに告げた。

 君たちの貢献に感謝している。状況を改善し、変化をもたらしてくれている。君たちはグレートだ

しかし、この市長こそが、オキュパイ運動の発祥地「ズコッティ・パーク」のキャンプ村に真夜中にブルドーザーを送り込み、私たちのコミュニティであったキャンプ村を撤去した政府役人である。

テントを破壊されるまでは、そこを拠点にして、ホームレスや誰にでも食事を無料配給していたオキュパイヤーたち。そんな助け合いのコミュニティがあったからこそ、やり遂げられたことを忘れてはならない。取り残される人々がいない社会を政府に要求していた活動家たちは、ハリケーンの起こる前から、弱い立場の者たちへの支援を、お互いへの助け合いとしてやっていた。その運動が一つのコミュニティを作っていたので、緊急時にもコミュニティとして対応できたのだ。

中には、学校というコミュニティも機能した。私の娘の公立高校の校長は生徒一人一人の住所を地図と照らし合わせて、浸水被害地域に住む生徒を自分でリストアップした。そして、「大丈夫ですか。あなたの住所は被災地区になっているので電話しました。私たちにはリソースがあります。何か必要なものはありませんか」と、校長自ら、うちに電話があったときには、感激した。この校長は、普段から生徒達のことを大切に思う女性だった。

オキュパイ運動と無縁の人たちも、助けたいという純粋な気持ちを持って、ハブにやってきた。教会など宗教団体も、すごいコミュニティ・パワーを持って一緒になって助け合った。人々が力を合わせて、他の人たちを助けることを目的に一つになった。

悲しくも、美しい時期だった。

 

copyright: Yuka Azuma 2019
(2012年「セレブの小部屋」75話のアップデート)

*誰も取り残さない、山本太郎さんの政治が今こそ日本には必要では?
「セレブの小部屋」109話