ニューヨークからプロライター達がお送りする、「ここだけ」のおもしろ情報。

世界の果てのタトゥー

On: あなたがいるニューヨークの物語〜短編小説と写真で綴る街

Photograph by Shino Yanagawa
https://shino-yanagawa.squarespace.com/
https://instagram.com/shinopaz/


 世界の終わりが来るというので、あなたはトランクに荷物を詰めて旅立つことにした。  

 世界の終わりというものはニューヨークや東京やパリやロンドンや、よく知られた都市から始まることになっている。

 だからどこか田舎の、ほとんどの人が聞いたこともない町、それだけに消えるのが後まわしになる町に移ることにしたのだった。

 通りは長距離バスに乗りこむ人々でごった返していた。
 バスの屋根にはトランクが山と積まれ、窓からもなかば人が溢れ出ている。

 そこかしこで行商人たちが叩き売りをしていて、露店にはオルゴールだの壜詰めのオオミズアオだの生きたアザラシの仔だのが並んでいる。

 米ナスほどの大きさの仔アザラシは白い毛に覆われていて、つぶらな黒く濡れた目が愛くるしいのだが、いったい誰が世界の終わりにそんなものを買うのだろうか。

 バスに並ぶ列はえんえんと地平の彼方まで続いて長い列を作っていた。

 列に並んでいると、ふいに目の前に大きなサイに乗った童子が現れた。
 サイの角と頭部は美しい色とりどりの宝石で飾られていて、黒檀のような肌をした童子は赤い薄絹を腰に巻き、花を髪に挿し、鼻筋に一本白い化粧の線を引いている。

 美貌の童子が黙ったまま、すい、としなやかに左手をあげた。
 左を見る。
 赤い砂漠が広がっていた。砂の彼方が熱で揺らいで見える。
 あちらに進めということなのだとわかったので、列を離れて歩きだした。
 
 とたんに目が覚めた。手を伸ばすとアラームを止める。ベッドから這いずりでて、バスルームに行く。

 グリーンのライトが5:30amを表示している。今日は7:30から12時間のシフトになる予定だ。体はまだなかば睡りのなかにいる。

 キャミソールとショーツを脱いで、パンティを脱衣カゴに放ると、その躰にはいくつかのタトゥーが施されている。

 あなたは鏡に映ったそのなめらかな躰の、それぞれ思い出深いタトゥーを見て、それからバスタブのなかでシャワーのコックを捻る。
 ノズルから温かなスコールが降りそそぐ。

—夢が来た。
 
 温かなシャワーの雨を頭から浴びながら、あなたは口もとをほころばせる。

—新しい模様を入れなくては。

「宝石で頭を飾ったサイと、花をつけた童子?」

 休日にイーストビレッジにあるタトゥーショップを訪れると、彫り師の男がオウム返しに口にして、あなたは深くうなずいた。

 そのリクエストに悩んだらしく、ひとつ息をついて、男は片手で顔を覆うと、眉根を寄せながら深く考えこみだした。
 この瞬間があなたは好きだった。

 あたかも困難な橋の建築を頼まれた設計士のように男は黙考していて、その真摯に取り組む態度が好ましかった。
自分の些細なリクエストに誰かが本気で取り組んでくれるさまというのは、嬉しいものだ。

 あなたはいつも夢のなかから徴を拾ってくる。
 自分だけの絵が欲しいのだ。

 あなたは小さな絵が好きだ。
 大きなタトゥーで声高に自分を主張したいわけではない。むしろ小さな絵を刻み入れて、ほとんど誰も気づかないまま、重要な目印を刻んでおきたいのだ。

 小さなスペースに、細かな絵を納めなくてはならないという難しい課題を出された彫り師たちは一様に悩むのだった。

「よし、こんなのはどうだろう」

 男が紙にデッサンをし始める。昔、美術学校に通っていたとかで、彼の画力はとても高い。
 絵を見ながら、この飾りはこんなふうと示しながら、絵を完成させていった。

 男はマシーンを稼働させる。ヴーン、という蜂の羽音の音を伴って、あなたの左腕に痛みが走る。
 あなたは痛みの熱さに身を任せる。

 タトゥーを刻んだあとの赤い肌に紙を貼りつけたまま外に出た。
 イーストビレッジの界隈には、タトゥーを入れた人たちが多い。
 
 エスプレッソマシーンに向かうバリスタたちは例外なくタトゥーを入れているし、レストランの厨房で働く者たちはみんなどこかにインクを刻んでいるものだ。

 ブティックの店員はくるぶしに絵を入れ、ヘアサロンのスタイリストは手首に絵をいれ、ストローラーに赤ん坊を乗せて押している母親の、その首筋にタトゥーが見え隠れする。

 みごとなものもあれば、見るに堪えないほどヘタクソなものもある。いや、ヘタクソなもののほうがずっと多い。

 髑髏に十字架に聖母。色とりどりのシュガー・スカル。
 トライバルの模様に、ケルトの紋様に、サンスクリット文字に、あきらかに意味を取り違えている漢字。

 二の腕に彫られたドラゴン、肩胛骨を彩る香水瓶、わき腹に見える気球、下腹にひそんでいる悪魔、首に飾られた薔薇、ふくらはぎにいるクラーケン、中指に隠された格言。

 誰もが自分だけの物語を肌に刻みたいのだ。

 ニューヨークの住人たちはどれだけ声高に自分のことを、自分の物語を、今ある人生を語りたいのだろう。

 あなたは地下鉄で、カフェで、みごとなタトゥーを入れた人に会うと、「わあ、すてき!」と声をかける。

 ときどき勤務先の病院でも、タトゥーに出会うことがある。
 採血する時にめくった袖の内側に、血圧を測る腕に、あるいは点滴静脈注射のラインを取る手の甲に、ふと絵柄が見えることがある。

 後ろで結ぶ仕様の色褪せた検査着を着て、ぐったりとしている弱々しい老人の腕から、思いがけず生々しい薔薇と髑髏の模様が出てきたり、ごく堅実な人生を送ってきたと思える初老の女性の背中からユニコーンが覗いたりすると、まるで森のなかで知らない動物に出くわしたような気持ちになった。

 たいてい患者というものは苦しさや不安や、すり減っていく時間の、そのやりきれなさで、実際の嵩よりも萎んでしまっているものだ。

 けれどもタトゥーに気づいて話しかけると、急に元の大きさに戻って、その絵の意味を蕩々と語るのだった。

「どこでその絵を入れたの?」
 そう尋ねると、いろんな町の名前が相手の口からこぼれて来る。

 知らない町、訪れたことのない遠くの土地。
 住む場所を移り住むたびにタトゥーを入れて、パスポートの査証のスタンプのように色とりどりの絵となっている人もいた。

 愛する人の名前を刻みつけた人もいたし、スターウォーズのセリフを刻みつけている人もいた。

 たくさんの名前を腕に刻みこんだ中年男の患者に出会ったことがある。
 男はがっちりとした体躯をしていたが、内臓疾患のために顔色が悪く、白い無精髭が生えていた。

 注射のための静脈を探しながら、いくつも刻まれた刺青が名前らしいと気づいて、
「たくさんの名前ね、昔の恋人たち? きっともてたのね」
と話しかけると、

「死んだ友だちの名前だ」

と返ってきた答えに、平手打ちを食ったような心地がした。

「ごめんなさい、聞いたりして」
「いいんだよ、そのほうがずっといい」
 
 彼はバルカン半島で行われた戦いの話をした。
 たしかにその昔ニュースでは見たことのある紛争だったが、それはうんと遠い世界のことで、正直なところ何が問題で起きた紛争だったのかもよく知らなかった。

「今では故郷でも、その名前を思い出す者も少なくなっている。だから読んでくれる人がいるのは、それだけでいいことなんだ」

 患者はすでに髪に白いものが混じる年代で、この人は生きて、アメリカに移り住んで働くことができたのだとわかった。

「死ぬ人間はいくらでもいるから、すぐに忘れられる。

だが、少なくともおれの体がなくなる時までは少なくとも、あいつらの名前は残る。おれが死んだら、それも消える」

「どう発音するの? その名前を読むから、正しい発音を教えて」

 患者がその名前を口にした。
 まったく聴きとれない異国の発音を真似て、発音を訂正させられ、何度か言い直して、死者を弔った。
 あなたが会ったことがない、けれどもかつて地上にいた人のことを悼んで。

 あるバーで飲んでいた時、
「それはどういう意味?」
と彼女がタトゥーを指さしてきた時のことを覚えている。

 その人はまっすぐあなたが肩胛骨の脇にいれたタトゥーを差していた。タンクトップから覗いていたらしい。

 それは長い犬歯をしたサーベルタイガーの頭蓋骨をかぶっている少女の図柄だ。
 少女は身の丈より長いフリルとレースがのたくるドレスを着て、真珠のネックレスを何連にもつけ、片手に長い槍を立てて持っている。

 いや、はたしてサーベルタイガーの頭蓋骨を頭にかぶれるものかわからないのだが、なにしろ夢であるのだから、物理の軛を逃れていた。

 あなたはその夢をよく覚えている。
 少女が話しかけてくることは、夢のなかでは、なるほど、それはじつに重要だ、なんとか手を打たなくては、と考えているが、起きたとたん、たちまちそれは蒸発して忘れてしまったのだった。

 まったくのところ重要な事柄というものは、朝のトイレの間に、あっさりと消えてしまうものなのだ。

 だからこそタトゥーに徴を残しておいたのだった。

 あなたは相手の瞳のうちを探りながら、「夢でみた光景なの」と説明した。
 あなたはめったにタトゥーの真実を語らない。

 それは心のどこか深くて柔らかい部分につながっているものだから、少しだけ用心して、相手を見極める。
 安全と見極めた数少ない相手にだけ語ることにしていた。

 その人からはなんら攻撃的なものも、支配的なものも、べたつくものも感じなかったので、本当のことを語ることにした。

「夢がなにかを伝えてくる時があってね、その時は夢のなかで拾った徴を持ち帰ってくるんだ」
 あなたはそう説明する。

「それを絵にしているの。
意味がわからないことが多いんだけどね。

でも大事であることなのは、わかる。
絵をつなげていったら、いつかその暗号がわかると思うんだ」

 小さな頃から、あなたはなにかを伝えて来る夢を見ることがあった。
 夢のなかで燃えさかる紅蓮の炎に包まれた町を見て、恐怖に襲われて目覚め、数日間はコンロの火を注意していたものだった。

 けれどもなにも起こらずに、ようやく安心した頃、ふと見たニュースのなかに同じ炎があって、それは違う国のニュースなのだけれど、驚きで胸がつぶれた。

 あなたの場合は予知夢というほど役にたつものではなく、実際のところなんら人生の指針にもならなかったが、何かを伝えてくれる夢があると、その徴を持ち帰るようになった。

 そして誰にも叱られない年齢になってから、その徴を肌に刻むようになった。
 忘れないように。忘却の波に洗われないように。

「ふうん、あなたの躰は夢の地図なのね」

 その人が頬杖をつきながら応えた。

「わたしはね、恋をするたびにひとつ記念の刺青をいれてきたんだ」
 
 彼女はいう。そしてタンクトップをめくると、いくつかの美しいタトゥーが見えた。
 小さな星たち。飛ぶ小鳥たち。小さな音符たち。

 あたかも自分で育てた家庭菜園のレタスでもあるかのように、愛しそうに彼女はタトゥーを説明したのだった。

 何杯かのカクテルを飲み、夢のことを語っているうちに、あなたは彼女と唇を重ねた。

 その人はあなたの唇に口づけて、薄い舌が割り行ってきた。腕をからませて、躰を重ねた。
 あなたは彼女と白いシーツの合間で、くすくす、笑いあった。

「物語は命綱なのよ」

 そう彼女は口にした。

「毎日の人生の細々としたことはバラバラで意味をなさないことなのだけれど、誰でもそれをひとつにまとめてくれる物語を必要としているの。

それを躰に刻んでおきたがるのが、わたしたちみたいな人種なのよ」

 あなたと彼女は腕を組んで歩き、同じ映画を見て、同じ独立記念日の花火を観て、ひとつのパスタの皿からわけあって食べ、口づけで唾液を交換した。

 ある日のこと、彼女は上腕の内側に小さな星々を刻んできた。
 そしてあなたの左腕と並べて見せた。

 あなたの下腕に刻まれた星と、彼女の上腕に刻まれた星は、流れるように一致していた。

「ほら、星が続くでしょう」
と彼女はつなげて見せた。
「あなたとわたしで星座を作っているの」
「どういう星座?」
「ふたご座」
「わたしに恋している?」
「当たり前じゃない」
「わたしはあなたの皮膚に刻まれる歴史になったのね」
「そうよ、あなたは道標の星座なの」

 あなたはその人が好きで、その人もあなたを好きで、互いの柔らかな襞を探ったのだったけれども、二人の向かう方向は違っていて、やがてその人はその人の夢を追ってインドに行ってしまったのだった。

 それからしばらく「伝えてくる」夢を見ていなかった。

 ようやくサイに乗った童子のタトゥーを入れてから、あなたは髪型を変え、口紅の色を変えて、またなにかを掴んでいる感覚を取り戻したのだった。

 その朝、あなたが病院で見かけたのは、少し変わった光景だった。
 白髪の年老いた女性患者が麻酔をかけられる時のことで、患者の痩せ細った左の前腕から点滴ルートを取ってある。

 そして麻酔科医が静脈麻酔薬を投与しようとした時、ふとなにかに気づいたらしく、驚いた表情をした。
 彼は二言三言なにかを囁いて、いきなりその場にひざまずくと、その年老いた患者の手の甲にうやうやしく口づけたのだった。

 まるで聖人か女王陛下でも見かけたような仕草だったから、とたんに小さな老女から後光が差しているように見えた。

 誰なのだろう。
 昔の大女優なのかもしれない。
 一瞬、好奇心がかすめたが、すぐにこれから始まる直腸検査のことで頭がいっぱいになった。

 ぶじ患者が回復室に戻って様子を見届けてから、カフェテリアに行くと、麻酔科医を見かけたので近づいてみた。

 麻酔科医が着ている青い医療用スクラブの半袖からわずかにタトゥーが覗いている。彼もタトゥーを入れているとは知らなかった。

 半分見えるタトゥーは、どうやら鳥のくちばしのようなマスクをつけたペスト医者の図案らしい。
 まったく変わった柄なのだが、たちまち興味を惹かれた。

「それはどういうタトゥーなの? なにかの物語みたいね」

 マフィンとコーヒーを載せたトレイを隣に置いて問いかけてみると、「うん、物語なんだ」と相手が答えた。

 スクラブの袖を持ちあげると、くちばしのマスクを付けたマント姿の男と、その足もとに二匹のイタチがいた。

「なんなのそれ?」
「僕が9歳の頃から作っている話。
 ずっとノートに落書きしていたマンガなんだ。

 この黒マントの男はウィーゼル使いといって、戦闘能力の高い魔性のイタチを操って敵を倒す暗殺者なんだよ」

 そう彼がタトゥーを説明して、自分でもおかしかったらしく苦笑した。
「いかにもガキが考えそうなことだろう?」

 あなたは口もとがゆるんで、「あるよね、そういうの」と同意した。

 それから「きみもタトゥーを入れているんだね。それはどういう図案? 見せてくれる?」と彼が指さした。

 あなたは袖をまくって「宝石をつけたサイと童子」がよく見えるように示してみせた。

 すでにカサブタも取れて、きれいに出来上がっている。

 相手はすっかり感心して、とてもいい図案だ、絵もうまいと褒め、どこのスタジオで彫ったのかと同好の士らしい会話が始まった。

「どこでその図案を考えだしたの?」
「夢のなかで」

 あなたが夢で見た光景なのだと説明すると、彼がサンドイッチを食べていた手を止めて、奇妙だな、と呟いた。

「思い出した。僕も夢で、似たものを見たことがあるよ」
「どういう?」
「暗い空の下で、列に並んでいるんだ。
列の向こうに収容されたら、自分の命はないだろうと知っている。

 ずっと逃げ出す機会をうかがっているのだけれど、誰かが見張っているというのを強烈に感じているんだ。

 僕は逃げ出せない。
 ちっとも逃げ出せないまま、列がどんどん壁の向こうに吸いこまれるのを絶望的に眺めている。

 すると、ふと横を見ると、大きな熊に乗った、裸の子どもがいるのに気がつく。
 子どもはすっぱだかなんだけど、金色の王冠をかぶっている。
 子どもが手をあげる。
 その方向だけ、色のない世界のなかで、色彩を帯びて見える。
 緑の木々が見える。
 僕はこっそり列を離れてそちらに向かうんだ」

 あなたはマフィンをコーヒーで喉に流しこみ、言葉を選んでから口を開いた。

「つまり人間には共同の無意識みたいなものがあって、その流れに、あなたやわたしが触れたということ?」

「かもしれない」彼がいう。

「でも僕の場合は、じいさんとかばあさんとか、戦争を経た人たちの話を聞いたのが影響しているかもしれない。

自分の夢なのか、誰かの話を聞いた影響なのか、今ひとつわからないんだ」

 それから彼が時間を確かめると、あわてて立ちあがり、まだ口を動かしながら次にタトゥーの話の続きをしようと約束した。

「タトゥーの話を?」
「それと色んな話を」

 次の休みに出かけたレストランで、オレンジ色のキャンドルの光に照らされた彼と向かいあっていると、この人が刻んでいるタトゥーを全部見てみたい、という気持ちが湧きあがってきた。

 彼の瞳のなかにも、その切望の光が宿っているのをあなたは気づいていて、その視線を受け流しながら、ゆっくりとワイングラスを回した。

「ここにもタトゥーを入れているんだ」

 彼がTシャツの袖をめくってみせると、機械仕掛けの鳥が現れ、背中には中世の騎士のような姿をしたロボットのタトゥーがあった。

「ジーンズの下にもタトゥーがある。もし見てみたければ、この場で見せてもいいよ」
 と、ふざけてジーンズに手をかけてみせた彼の言葉に、
「いらない」
 あなたは笑って、ワインを飲んだ。

 ある人のタトゥーに心惹かれるのと、その人物に惹かれるのでは、どれくらい差があるのだろう。

 タトゥーはその人物そのものだ。
 宿主と運命をわかちあった皮膚の上の相棒なのだ。

 けれども、だからといってタトゥーがその人物の癖やら、あるいは怒った時にどう接するか、落ち込んだ時にどう振る舞うかは教えてくれない。

 それはタトゥーよりもっと深いところに刻まれているものであって、その見えない刻印のほうを見てみたい思いがした。

「見えにくい場所に刻んであるのね」
「ふだんは見せないようにしているんだ」
「仕事のために?」
「というか、タトゥーのほうが自分より目立つのは嫌なんだよ。それに目立つタトゥーだと、欲しがる人間がいるかもしれないしね」
「そんな人いる?」
「イルゼ・コッホという名前を知っている?」
「聞いた気もするけれど、よくわからない」
「ユダヤ人強制収容所の女性看守だよ。
 みごとな刺青をした囚人がいると、その皮を剥いでランプシェードや本の装丁を作ったという罪に問われたんだ。

 はっきりとした物的証拠は出ずに、冤罪だったという説もある。
 どこまで真実かわからない。
 でも奇妙なことに、人はそれがあるかもしれないと信じられる薄暗い部分があると思うんだ。
 タトゥーには人間の気持ちを捕まえて離さないものがある」

 それはわかる気がした。
 タトゥーには呪物に似たものがあって、そこに込められた力や念は、誰かが亡くなった後でも皮に残っていそうな気がする。

 あなたは先日麻酔室で見かけたあの患者は誰だったのか、なにかあったのかと尋ねてみた。

「左腕に数字があったんだよ」
「数字? なんの?」

 彼が自分の前腕を見せた。
 小さな数字が刻んであった。

「左腕に数字を刻まれるのって、なにか知っている?」

 あなたはかぶりをふるが、ふと気がついて、あ、と声をあげる。

「強制収容所に入れられた人の番号?」
「そうだよ、昨日まで人間だったのに、ある日から番号だけになった人たちがいたんだよ。

 うちの祖父にも数字の入れ墨があった。
 もうずいぶん前に亡くなったけれどね。

 刺青って年月が経つと色が薄れていくんだ。
 緑色みたいになって、だんだん薄くなる。

 だんだんシミか汚れみたいにしか見えなくなってくる。
 でも気がつく人もいる。

 あの人の腕には番号があった。
 僕がしたのは、いちばん過酷な時代を生き抜いたひとへの尊敬なんだよ」

 息が堅くなった。みずからの意志ではなく、数字を刻まれた人たちのことを考えると、彼らの恐怖と絶望を想像すると、胃のあたりが絞られた。

「でも、これは違う」と彼が自分の腕に刻まれた青い数字を見せた。
「僕が自分の意志でいれたんだ。

 祖父が亡くなる少し前に、その数字を残しておこうと思った。

 この番号のタトゥーを入れたときに、うちの親は激怒したよ。
 屈辱の数字なのに、なにを考えているんだって。

 だけど、僕の考えは違う。
 その番号になった人を、その過去をずっと覚えておくために刻んだんだ」

 無骨に刻まれているその数字の上に、しんと闇が落ちてくるようだった。

 考えてみれば、すぐそこの昔に戦火があり、数え切れないほどの街が焼け落ちて、それでも誰かが生き延びてくれたのだ。

「うちのおばあちゃんは空襲を生き延びたの。
おじいちゃんはシベリアに抑留されていて、何年も経ってから戻ったって聞いた」

 祖父母はあまりその時代のことを話さなかったし、覚えている姿はとても過酷な経験をしてきた人たちのようにも見えなかった。

 けれども、飛行機が上空を通ると、祖母はあの音を聞くと思い出すから嫌いなのだ、と眉を寄せていた。

「おばあちゃんが生き延びてくれたから、母が産まれて、だからわたしにとっては大きな違いだと思う」

「僕にとっても大きな違いだよ、きみに会えたから」
 彼が瞳を覗きこんできて、あなたは微笑む。
「あなたは運命を信じる?」
「いや、信じない。だから偶然に感謝している」

 やがてあなたたちが一緒のベッドにもぐり込むようになった夜、彼はあなたの足首から刻んだ物語を読み始めていった。

 あなたの足首にあるのは、パイから飛び出す小さな黒い鳥たちだ。

 焼いたパイから黒い二十四羽のつぐみが飛び出して、金色の指輪を盗んだハツカネズミが縄を伝わって逃げ、星に伝わるハシゴを登っていく。

 彼はあなたの裸身を舌と指で丁寧に読んでいく。

 リボンのついたボックスを開くと、なかから一角獣の頭蓋骨が現れる。それは深い過去からのプレゼントなのだった。

 彼が舌を使って読み解く物語に、あなたは吐息をつき、体を震わせて、やがて声をあげる。
 腕をからめ、足をからめていく。

 それからあなたも舌を使って、彼の裸体に刻まれた物語を辿っていった。

 引き締まったわき腹にあるのは、飛行船だ。たくさんの円い気球をつなげ、船首が巻きあがった飛行船が空を進んで行く。

 機械仕掛けの鳥たちが偵察を続けている。

 そして夕闇の空をゆらゆらと漂っていくクラゲの群たちと共に、大きな石の門を潜っていく。

 ふと気づくと、あなたはいつのまにか列に並んでいる、
 空は重く鉛色をしている。

 そこはひどく暗い。暗くて寒い。
 数多くの魂が並んでいる。
 そっちに行ってはいけない、そっちに行ったら殺されるだけなのだ、とわかっている。

 けれども列に並んでいる多くの人々は、暗い表情をしながらも黙って大人しく整列して、列は少しずつ前に進んでいくのだった。

 この人たちは先に待っていることがそれほどひどいことだと知らないのだ。殺されるだけなのに。

 そっちに行ってはいけない、騙されてはいけない、すぐに列を離れて逃げ出すのよ。
 周りの人たちの腕を掴んで説得するのだが、彼らは聞こえないように、しずしずと前に進んで行く。

 あなたは恐怖にしめつけられながら、隙を見計らって列を抜け出し、建物の隙間の暗がりにまぎれこんで歩き、長い廊下を歩いて行くと、いつしか大きな部屋に辿りついた。

 温かく柔らかな卵色の光に包まれた大きな部屋の、そのテーブルの上に並んでいるのは、ガラスのドームに包まれた切り取られた刺青の標本だった。

 刺青が施された人間の皮膚がいくつも保存されている。
 テーブルは長く続き、ずっと奥までガラスの標本箱が並んでいる。

 ああ、長い過去にたくさんそんなことがあったのか、と思われた。何度も、何度もそんなことがあったのだと思い知らされた。

 これは持ち主に返してやらねばならない。
 ひとつの標本を抱えると、急いで逃げ出した。
 暗い廊下を歩く、やがて建物の外に出る。

 とたんに非常ベルが鳴りだして、あなたは駆けだした。

 しまった、気がつかれた。追われている。
警護の者たちが追ってくる気配がする。
 
だが足はもたつき、スピードが出ない。
 まるで泥のなかを歩いているようだ。

 捕まえたら殺されると、恐怖にとらわれながら必死に進んでいると、照りつける陽ざしの下で、巨大なトカゲのような爬虫類が佇んでいるのに出くわした。

 巨大なトカゲにはきらめく宝石をほどこした口輪が嵌めてあって、その手綱を引いているのは背に乗った褐色の童子なのだった。

 白いレースの日傘をさした童子は、赤い泥で髪を固め、ふっくらと膨らんだドロワーズのような白い半パンツを履いてあぐらをかき、長いキセルをくわえている。

 童子がキセルで、左の方向を指した。
 そこだけ明るく野が広がっている。
 あちらに逃げるべきなのだ。

 あなたはそちらに向かいつつ、足がもつれて、その時、ああ、そうだ、思い出した、駆けるのではなく飛ばねばならないのだと気づき、空を滑り出した。

 あなたは空を飛んでいく。
 するすると、するすると。
 重力を逃れて軽やかに。

 その時ふと目を覚まして、あなたは自分が泣いていることに気づく。
 涙を流しながら、あなたは夜明けのベッドの上にいるのだった。

 そこは静かで、誰かに殺されない場所だった。
 安全で温かな場所だった。
 青い光に包まれた明け方のベッドで、隣で安らかに寝息をたてている彼を見て、あなたは安堵の息をつく。

 生きている、彼もわたしも殺されない。わたしたちはここにいる。
 そして両手で顔を拭う。ひとつ息をつく。

 恐怖よ、なめるな。
 次はもっと取り返してやる。

 苦痛よ、あざ笑うな。
 その力に屈するしかない人間の弱さを見下すな。

 かりそめの死よ、次はうまくやってやる。
 必ずもっとうまく取り返してやる。


■イーストビレッジのタトゥーショップ 

FUN CITY TATTOO ファン・シティ・タトゥー
住所:94 St.Marks Place New York, NY 10002
電話番号:212-353-8282
営業:12:00pm~10:00pm 定休日なし
http://www.funcitytattoo.com/

1976年にオープンしたマンハッタン市内で最も老舗であるタトゥーショップ。オリジナルのオーナーは伝説の彫り師であるジョナサン・ショウ。ジョナサンはジョニー・デップやジム・ジャームッシュのタトゥーを手がけた。
現在のオーナー、ビッグ・スティーブはジョナサンの直弟子であり、他にも何人もアーティストが揃っている。最もイーストビレッジらしいタトゥーショップだ。

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