ニューヨークからプロライター達がお送りする、「ここだけ」のおもしろ情報。

モントークの光

On: あなたがいるニューヨークの物語〜短編小説と写真で綴る街

Photograph by Shino Yanagawa
https://shino-yanagawa.squarespace.com/
https://instagram.com/shinopaz/


 モントークは聖域だ。
 ニューヨークのいちばん東にあるこの町には、どこよりも早く朝日が訪れる。
 浜辺は誰にでも開かれているし、一杯のコーヒーを買う時でも店員は親しげに話しかけてくれて、サーフボードを積んだピックアップトラックが走り、誰もが気軽に挨拶をかわす。ここでは時間はゆるやかに流れ、人々は麻の切れ端のようにほどけて、くつろいでいる。

 夏の始まりと共にモントークには外から訪問者が山ほどやって来る。サーフボードを抱えた若者やらビーチチェアを抱えた家族連れやら、アイスクリームの山やらロブスターロールやらで、モントークの町はごった返し、その時期だけはホテルが満員になる。
 けれども、ここには見えない線が引かれているのだ。

 あなたがそのことを知ったのは、うんと昔の夏のことで、その頃あなたはまだ16歳の少年だった。
 その年は複数の家族で小さなサマーハウスを借りて、まるごと夏をモントークで過ごすことになったのだった。

 あなたはサーフィンを始めてたちまち夢中になった。
 はじめは波に置いて行かれ、立つことすらできなかったが、一瞬立てた時に覚えた、世界のてっぺんにいるような歓喜を求めて、毎日浜に通った。ディッチ・プレインズ、ポールズ、テラス、そして灯台に近いタートルズ。さまざまな浜辺に通ううちに、気づいたのだった。
 最高の波は境界線の向こうにあるのだと。

 いま陽光は痛いほど首筋に注いでいる。
 波打ち際でブギーボードを引っぱっている息子を見ると、こんなふうにモントークの海辺で息子に波との遊び方を教える日が来るのを喜んだ。息子から見れば、自分はまだまだ乗りこえられない壁であるということも自尊心をなぐさめた。

 久しぶりに訪れたモントークは当時の面影とはすっかり変わっていた。
 白とくすんだ赤に塗られた灯台は常に同じままで懐かしさを覚えるが、ロータリーの周辺には、今では洒落たレストランやブティックが建ち並び、広告から出てきたような若くてきれいな女や男たちが歩いている。

 いかにも裕福そうな白髪混じりの男が、若い女と一緒にオープンカフェでワインを傾けているのを見て、ここは金持ちたちの憩いの場なのだと気がついた。デール・ベルジーのサインが入ったクラシックなボードを持っている都会の成功者たち。彼らは優雅なひとときをここで楽しんでいるらしい。

 あなたは息子を連れて釣り船に乗ることにした。
 この時期ヒラメは釣りやすい。子どもが持っている釣り竿にアタリが来て、手を添えてやりながらリールを巻きあげると、ヒラメはその体をバタバタさせながら船上にやって来た。写真を撮るために、魚を掴んだ息子の顔は、混じりけのない喜びと誇らしさに照り輝いている。

 それから血抜きのために、ナイフを鰓の下あたりにザクリと入れてから、水の入ったバケツに放り込むと、子どもは眉を曇らせた。
「殺さなくちゃいけないの?」
「釣りをすれば、魚は死ぬよ。どんな魚だって死にたくはないだろうね。でもちゃんと食べるには、血抜きをしておくほうがいいんだよ」
 あなたはそう応え、この子は優しい心の持ち主なのだと考える。その子に両親が離婚するということを、どうわからせていいかはわからなかった。

 桟橋に船が着くと、客たちは魚を捌いてもらうために列を作る。
 中年の女性が手際よく魚を下ろしていて、その斜めの顔を見た時に、ふと視線が釣り針のようにひっかかった。
 洗いざらしのダンガリーシャツを着ていて、髪を後ろで無造作に縛っている。
 誰だったろう、この面影を知っている、会ったことがある、と気づいたとたん、頭のなかでフィルムが逆回転していって、そこに18歳の少女を見つけた。

 彼女の喉のくぼみには、ひと粒の大きな黒真珠をつけたネックレスが納まっている。それを見て鼓動が早くなるのを感じながら、あなたは話しかけてみた。
 ずいぶん昔にこの釣り船に乗ったんですよ。懐かしいな。
 そうですか、と彼女は愛想良く笑う。ご贔屓いただいて、ありがとうございます。
 僕は毎年夏になると、この釣船に乗ったんです。一家で遊びに来ていて。ちっとも変わっていない。
 ああ、そうでしたか、いつもありがとうございます、と彼女はまったく覚えていない人のまっさらな笑顔で応える。
 その真珠を、とあなたは思い切って切り出した。その真珠をあげたのが、僕なんです。きっと覚えていないだろうけれど。
 ふと彼女の動きが止まる。まつげがあがり、瞳があなたを捉えて、あたかも眼科医が患者の目のなかを覗きこむように、綿密にあなたを調べ、それからその瞳の奥に光が爆ぜた。
 ああ、と声が洩れる。ああ、まあ、驚いた。まさか。
 あなたは自分の名前を名乗る。
 そうだった、覚えているわ、と彼女は笑いに崩れて、目元に皺を畳む。

 あの夏あなたは父親に連れられて釣り船に乗ったのだった。
 桟橋の柱には、巨大なサメの顎の骨が飾られていて、身を下ろした後の骨だけになったヒラメたちがいくつも釘で打ちつけてあった。
 桟橋に船が着くと、彼女はひらりと跳躍して真っ先に桟橋に飛びおり、ロープで船を柱にもやったものだ。

 客たちは釣った魚を下ろしてもらい、彼女が包丁をあやつると、こそげた鱗が桟橋に落ちてきらめき、スニーカーを履いた彼女の足を、鱗のラメ細工が飾っているように見えたものだ。締まった足首には細い金のチェーンが巻かれていた。

 その夏、彼女は完璧だった。
 自然は完璧な美しさを作りあげるものだ。崩れる瞬間の波頭のように、蝶の羽のように、夕暮れの雲から差しこむ光のように。

 彼女が白い歯を見せて笑うようす、長い髪をかきあげる仕草、眉を寄せて真剣にヒラメを捌いているようす、鼻に並んだそばかす、日焼けした腕に金色のうぶ毛が生えていたこと、バンダナ柄のビキニをつけた胸もと、引き締まった胴に浅く付いた臍の句読点、カットオフしたジーンズから伸びていた金褐色に焼けた脚、ロープを引っぱる時に盛りあがる健康な筋肉の動き。それらはその瞬間しか存在しない美しさとして在った。
 あの夏、彼女は完璧だった。

 思い返すと、あの時あなたは釣り船で海を眺めるふりをしながら彼女の姿を視界の端でとらえてばかりいたのだった。
 釣り船で父親はさっそく魚を釣り上げて、エサだの竿の種類だのについて講釈をたれていたが、あなたはまったく聞いていなかった。

 ふと目が合うと、彼女が微笑んでくれた。今から考えれば、たんなる客に対する愛想笑いだったのだが、学校でそんなふうに美しい少女から笑いかけられたことはなかったから、あなたは恥ずかしくてそっぽをむいたのだった。

 父親は上機嫌で、彼女を相手に自分が釣り上げたことがある獲物の自慢話を披露していたが、あなたは内心恥ずかしかった。釣り船でバイトしている女の子にそんな自慢をするなんてばかげている。父親に腹立たしさを覚えていると、彼女が隣にやって来て、親しげに笑いかけてきた。

「ここではマグロやサメを釣ることもできるのよ。おとといは沖まで出て、大きなマグロが釣れたの」
 ふうん、とあなたは鼻声で応える。そうやって教えてもらうほど、あなたは幼くなく、自分がいろんなことをもっとよく知っているように見せたいのが、どう振る舞っていいかわからなかった。水面には波の上に幾千もの光が踊っていた。

 なにもいえずに沈黙していると、彼女が離れて隣の客のほうに行く気配がしたので、
「サーフィンはする?」
 あなたは唐突に口を開いたのだった。
「僕は毎日しているんだ」
「へえ、そうなんだ」と彼女が眉をあげて微笑んだ。いかにも年上らしい、余裕のある笑みで、あなたはできれば自分が何歳か上のように振る舞いたいのだけれども、どう答えればクールに映るのかわからなかった。
 すると急に「アタリが来ているよ」と彼女が口にした。

 あわててリールを巻こうとすると、待って、待つのよ、少し待つの、彼女が止める。
「すぐに引き揚げてはだめ、少しだけ辛抱してエサを食べさせるの、そしたら獲物はあなたのものになる」
 耳もとでそういう彼女の声のほうが、あなたにとってはよほどどぎまぎすることで頭に血が上っていると、父親がやって来て、アワセをしろ、こうしろと大騒ぎしたので、もはやその得物はあなたの獲物ではなくなり、正しくは父親の獲物となったのだが、やがて巻きあげられたヒラメはその体を陽光に曝し、脇から彼女がタモ網を差しだして、そのなかに納まった。
 甲板で撥ねた、その生き物の生命力と鱗に弾けた光は圧倒的だった。

 釣船が船着場に戻ると、彼女がヒラメを切り身にしてくれた。彼女の手は正確にはらわたを抜き、身を骨から削いでいった。魚を捌いたことがないあなたにとっては、その工程じたいが生々しく思えたが、それを淡々とこなせる彼女に気後れしていると見られなくないと思った。

 あなたの視線はずっと彼女を追っていた。うつむきかげんの顔立ちを見つめ、そのまつげを辿り、鎖骨を盗み見て、やがて捌いた身を渡してくれた時に、あなたはまるで見てもいなかった、関心もなかったふりをして受け取り、その臆病さを自分で呪ったのだった。

 次に彼女と会ったのは、夜明けの海辺だった。
 あなたは早起きして、友だちと一緒に朝5時にボードを抱えて浜辺に出かけた。長いボードを片腕に抱えながら自転車に乗ってずっと先のほうまで道を走っていくと、道端にピックアップトラックが止まっているのを見かけ、自転車を停めると、海にむかっていった。

 風に晒されて色褪せた木製のビーチフェンスが続く砂の丘を登っていくと、突然目の前に海が開けた。まだ陽ざしの洗礼を受けない海原は、鏡のように滑らかに光っていた。
 朝は生まれたてで、遠くからうねりがやってきて、波は長く張りながら順々に白く崩れていく。
観光客が多いビーチでゆるくて厚い波に乗ったことしかなかったあなたは、すごい秘密を発見したように心が躍った。

 明け方の海は肌を切るほど冷たく清潔だった。
 そこには先客がいた。地元のサーファーたちだ。彼らは波がブレイクするポイントにラインアップしていて、崩れ出すピークは彼らのものだった。
 パドリングして沖にむかう。波がセットでやってくる。どの波も慣れたサーファーたちに持って行かれてタイミングが掴めなかった。

 何度も波をやり過ごした後、ふっと良いタイミングで波に乗れた。とたんに近くに他のサーファーが迫ってきていたので、ボードから海に転げ落ちた。
「前乗りするな、ばかやろう、危ないだろう」
 年上のサーファーにこっぴどく叱られた。あなたがすっかり縮こまって謝っていると、「気楽にいこうよ」と女の子の声がした。
「その子は初めてなんだから。次からわかるから大丈夫だよ」
 ふりむいて、心臓がひっくり返った。あの美しい少女がパドリングしていた。
 昨日釣り船で会ったよね、と彼女は笑いかけてきた。

 見ていれば、彼女は細いのに楽々とパドリングして沖に出て、滑らかに波に乗っていた。波は彼女を受けいれ、祝福し、滑らかに乗せていくのだった。

 陽が昇り始めると同時に、地元のサーファーたちは海から引きあげてきた。
 彼女は砂浜で髪を捻って海水を絞っていて、あなたがこのビーチによく来るのかと尋ねてみると、うなずいた。
「まだ波が高くないけどね。秋になると台風が上がってくるの。去年の台風の頃はすごかった。冬がいちばん良いシーズンなのよ」

 話しながら、彼女が薄いウエットスーツのジッパーをはだけると、ビキニのブラをつけた胸がこぼれ出た。あなたは見ていないふりをして、「秋に来てみるよ、台風の波なんて最高だろうな」と口にした。
「どうかな」と彼女は少しあごをあげて、大人びた笑みを浮かべたのだった。
「去年はボードが折れて大怪我した子もいたのよ。ばかみたいよね、男の子って。無茶ばかりして」

 それから彼女の関心は移って、軽やかに砂を踏んでいくと、海から戻ってきたサーファーと腕を組んで歩き出したのだった。最高の波を乗りこなしていた地元のサーファーと。

 再会というのはふしぎなものだ。
 現在の彼女を初めに見た時に覚えた、目の前に薄い膜が張っているような感覚、何十枚もの画像が重なってぼやけていた画像が急にピントが合ったように彼女であることを認識したとたん、そこにいるのはもはや18歳の彼女で、なにも変わっていないように思えた。

 あなたは懐かしさから彼女と当時あったモントークの店のことやら人気があったロブスターロールの話やらをして、同じ時代をわけあった者同士の笑いを交わした。
 ふと思いたって、翌日の食事に誘ってみると、意外なほど快く承諾してくれた。

 車を滑りこませて停めると、無数の光と華やいだ音楽が響いてきた。
 海に面したレストランの屋外の席には、数多く吊されたランタンが灯っている。
 今夜は息子が友だちのところに寝袋を抱えて泊まりに行く予定で、車で送っていた後、店に向かったのだった。

 モントークにもとびぬけて洒落たレストランが出来ていて、都会の人種がそのまま引っ越してきたようだった。
 バーに集う若者たちは洒落ていて、美しかった。ランタンの下で、なんの不安もなく、明日を疑いなく信じて、笑い弾け、夏の王座にいるように大騒ぎをしている若い肉体がひしめきあっている。
 あなたは微かな郷愁を覚える。誰もがある時期、モントークで曇りひとつない夏を過ごすのだ。

 グラスに入れたキャンドルの灯りを向かいにした彼女は、すっかり海辺の住人になっていた。
 海辺に住む者は容赦ない潮風と照りつける陽ざしで、潮風に曝された木のように、脂気がすっかりぬけて皺を刻むものだ。そして同時に海の強さの前に、どこか謙虚で、すべてを受けいれるような笑顔を身につける。ちょうど波に洗われて丸くなった緑色のガラスの欠片のように。

 彼女は幾分穏やかになったように見え、けれども不幸な色合いがないことを、あなたは嬉しく感じた。
 同窓会に行くと、たまにどこですべての運を使い果たしてしまったのかと訝るような同級生もいるものだが、彼女が笑う時に畳まれる目尻の皺は好ましかった。あなたは自分にも同じだけ刻まれた時の小刀を受けとめていて、古びた夏の思い出のことを話せる相手がいるのを喜んだ。

 あの夏、彼女はいちばんクールなサーファーと腕を組んで歩いていた。
 モントークには秘密の浜辺がいくらでもある。石ころだらけの浜があり、海藻がたまった磯臭い浜がある。
 地元のサーファーたちはどの岩にぶつかって波が割れるのか、砂浜のどこに波が起こるのかを熟知していた。彼らが波を捕まえるようす、ボードに乗るようす、波を滑りながら波と一体となるようす、彼らは海の血族であって、波間の聖なる域に属しているようだった。
 なかでもとびきり上手いサーファーがいて、いちばん良い波を捉える権利を持っていた。そしてビーチでいちばん魅力的な女の子のことも。
 あなたは痛みと憧れを混ぜた思いで彼らを見つめたのだった。
 なぜ自分はこの浜でいちばんクールなサーファーではないのかと。

 あなたと彼女は、白ワインのグラスや生牡蠣や揚げたカラマリ越しに、よく通ったアイスクリーム店の話や、今になってみれば幾分笑える当時の流行だとか、ラジオから流れていたヒットソングだとか、近頃のモントークはすっかり変わってしまったといった、とりとめのない会話を続ける。

「あの頃、あなたはひょろりと痩せていて、かわいい男の子だったよね。いかにも街から来た子って感じだった」
 彼女は笑いながらいう。それはあなたにとっては意外な言葉だった。
「まさか。ぜんぜん都会っぽくなんかなかったよ。僕はてんでダサかったし」
「ううん、このあたりの子とは違っていたよ。ポロシャツなんて着ちゃってさ。新しいウォークマンを持っていたし」

 あなたの脳裏にふいに蘇るのは、ある浜辺の光景だった。
 それはなに、と彼女が浜辺でそう尋ねた時の姿で、あなたが持っていたのは、当時は新しい型のウォークマンだった。
 その頃夢中になっていたのがマイケル・ジャクソンで、あなたがイヤホンの片方を、彼女に差しだした。そのイヤホンを嵌めると、彼女はふと地上から浮かんだ表情を浮かべて微笑み、曲に合わせて体を揺らしたのだった。両手をあげて、リズムを取っている彼女とイヤホンをわけながら、この時だけはあなたは自分がよそ者であることを、晴れがましく思ったのだった。

 夕凪が訪れる頃、サーフィンをすることもあった。
 空が薔薇色に染まる頃、風は切り替わる。その狭間に海は静かな銀盤となる。
 タイミングよく波に乗れると、足の裏で生きたうねりを感じながら、波の上を滑っていって、まるで自分が波頭を切りひらく船首のように感じたものだった。
 自分はこの瞬間最高に面白いことを知っている、と16歳のあなたは疑いなく信じていたものだ。

 陽が暮れると、浜に薪の火がくべられた。
 オレンジ色の炎が夜空に巻きあがっていた。彼女はあなたを見つけると鷹揚に微笑んで、手招きしてくれた。
 彼女と歩いていくと、ハーイ、と声がかかる。元気かい、どうしていた、あちこちから声がかかる。彼女は浜辺の女王なのだった。浜にいる青年たちは、誰もが彼女の歩くようすを視線で追っていた。
 彼女はそれを知っていた。よくわかっていて、引き締まったウエストから続く丸い尻を揺らしながら、ゆっくりと砂浜を歩いていた。そこかしこからあがる歓声、弾ける焚き火、笑い声、踊り出す若者たち。 
 焚き火は夜空を焦がしていた。あなたはそこにいる許しを得た特権階級になったような、秘密クラブに入れたような昂揚があった。
 彼女はビキニのトップを着て、カットオフしたジーンズを履いていた。なんのまじないなのか、手首にはいくつもカラフルな紐を巻いていた。
 彼女は長い髪をかきあげて、それから微かに首を振って背中で揺らすようにして整えるのが癖だった。焚き火にオレンジ色に映し出される彼女の横顔を、あなたは見つめ続けていた。

 彼女はふしぎとあなたに親切にしてくれて、地元民しか行かないようなビーチに誘ってくれたり、一緒にピザを食べに行ったりした。
 あなたは彼女の関心を得ていることに有頂天になっていたが、実際に彼女がつきあっていたのは、ずっと年上の地元のサーファーだったし、他の男友だちもたくさんいた。

 年上の男たちの間で、あなたは隙間に落ちた木の実のようなものだった。けれども、彼らからからまれることも、こづかれることもなかった。
 今になって考えれば、周囲の青年たちから、そして彼女からも無害な子どもとしてあつかわれていたのかもしれない。

 それでいて彼女の気分が、ふいに波風のように変わることがあった。
 時折ふさいでいる横顔を見せていることもあり、そんな時に近づくと、うるさがってそっぽをむかれた。

 今でも強く記憶に刻まれているのは、ある夕暮れに彼女が泣いていた光景だ。
 ロータリー近くのピザ屋でのことだ。あなたはピザを買いに来ていて、そこで店の公衆電話を使っている彼女を見かけた。
 そうだ、あの頃は公衆電話なんてものがあったのだ。今ではもう絶滅してしまった壁にかける形式の電話で、彼女は誰かと話していて、電話を切ると、突進するように出口にむかってきたのだ。見れば、フーデットパーカの袖口で目元を拭っていて、びっくりした。

「どうしたの」
 あなたは外に出て声をかけるが、彼女がふりむきざまに投げかけた鋭い視線で、裁ち切られた。
「なんでもない」
 涙に濡れながら、彼女の瞳は威嚇していた。
「来ないで」
 それから彼女は早足に去ったのだった。

 ひどく混乱した。なにかがあったのだ。誰かが彼女を泣かせたのだ。その犯人を見つけ出して殴りつけたい気持ちになったが、なにがあったのかわからない。
 僕だったら泣かせたりしないのに。
 泣かせるようなことはしないで、いつも崇拝しているのに。
 夜の闇があなたを押し包み、あなたの純粋で真摯な思いと、世界は釣りあわないのだ、ということを痛いほど悟る。

 あなたがどれだけ恋しても、彼女にとっては些細なことであって決して報われない。
 恋の真摯さと世界は決して釣りあわない。釣りあうには、ただ痛みの重さを積みあげるしかないのだった。

「わたし、あなたに謝らなくちゃいけないことがあるの」
 テーブルの向こうにいる彼女がワイングラスを持って、そう口にする。首もとの真珠に触れて、
「どうしてこの真珠をあなたからもらったのか覚えていないのよ。ずっと気にいって大切にしてきたのよ。幸運のお守りだった。でも今日まで、あなたがなんで真珠なんて持っていたのか考えたことなかった。今になって気づいたわ。なぜこんなものを持っていたの?」
 ああ、そうなのかと、あなたは合点する。たぶん彼女にとっては大きな出来事ではなかったのだろう。しかしあなたにとっては、その記憶は忘れることのない記憶の棚にしまわれたものだった。あなたは苦笑いして答える。
「盗んだんだよ」

 ある灰色に沈んだ雨の日のことだった。
 ばらばらばら、と雹のような音がして、続いて聞こえた母親の悲鳴に驚いて慌てて居間に駆けていくと、母親が絶望の身ぶりで首飾りが切れたと訴えた。
 どうでもいいようなことで拍子ぬけしたが、これは南洋真珠というもので、とても貴重なのだ、ひと粒たりともなくすわけにはいかない財産なのだと、母親は真剣な面もちで告げ、家族はいっせいに床にはいつくばって散らばった真珠の粒を集めることになったのだった。
 探し始めると、チェストの下やスリッパの中までずいぶんと遠くまで真珠は飛んでいっていた。みんなで真珠をかき集めると、母親に渡した。

 そして翌日あなたはソファに座った時に、マットレスの間にひと粒だけ残っていた真珠に気づいて拾ったのだった。
 黒い大きな粒だった。つまんで、しげしげと見つめた。黒い球体は虹のような光を反射していた。それからあなたはカーゴパンツのポケットに収めたのだった。自分でもよくわからないまま。

「あげる」
 夜の桟橋で、真珠の粒を掌に乗せて差しだすと、彼女の視線が落ちてきた。
「これは南洋の真珠なんだ。すごく珍しいものなんだよ。大きなシャコ貝のなかにあって、この真珠を取りにいこうとすると、急に貝の口が閉じて、ダイバーが足を挟まれて死んじゃうこともあるんだ。危険なんだよ」
「うそつき」彼女が鼻に皺を寄せて笑った。
「うそじゃないよ。マジだってば。だってこんなの見たことがある?」
「どうやって手に入れたの」
「もらったんだ。だからきみにあげる」
「どうして」
「ふさわしいと思うから」
「どうして」
 重ねて打ち寄せた問いに、あなたが答えに詰まって相手の顔に答えを見出そうとすると、彼女の瞳が笑みを含んでいた。
「どうして、ふさわしいと思ったの」
「……わからない」
「見せて」
 掌に真珠を乗せた。彼女はそれをつまみあげると、魅入られるように見つめていた。真珠に心を吸いこまれたかのようだった。青白い街灯の明かりが桟橋に降りそそいでいた。それからふいに彼女が真珠を口のなかに入れた。あ、と声をあげる間もなく唖然としていると、彼女は笑ったまま後ずさり、それから踵を返して桟橋を走り出した。

 あなたは慌てて追いかけていく、桟橋で、彼女がTシャツを脱いだ。続いてジーンズを脱ぎ捨て、パンティ一枚の姿になると、最後にブラジャーを投げ捨てた。一瞬見えた乳房は荒々しく揺れて、自由になったのを歓んでいるようだった。
 すぐさま彼女は身を躍らせて海に飛びこんだ。すぽり、と吸いこまれるように。白い飛沫が立つ。

 あなたは何をしていいのかわからないまま、しばし茫然として、それからもたもたとTシャツとジーンズを脱いで海に飛びこんだ。どたり、と音がして、鼻から海の塩水が飛びこんできた。
 海の水は滲みるほど冷たく、心臓が凍りつくかと思うほどだった。

 彼女は海に浮かびながら笑っていて、暗がりでもその白い歯がわかった。すいすい、と沖に泳いでいく。あなたは追いつこうとして必死に泳ぐ。
 彼女は海の泡から生まれたように滑らかに沖に泳いでいく。近くまで泳いでいった。息を切らしていると、彼女が立ち泳ぎをしながら、口から真珠を取りだして差しだしてきた。

「わたしは盗人じゃないわ。口をあけて」
 あなたが口をあけると、彼女が真珠の粒を押しこんだ。それから彼女がまた泳ぎだした。月明かりは水面を照らしていて、千の波と一緒に輝いていた。

 口のなかに真珠を抱えたまま息をするのはむずかしく、咳きこみそうになった。
—きっと死ぬんだ。
 唐突にあなたは思った。
 この海でどこまでも遠くに泳いでいって、沖からうんと離れたオフショアで、力つきるところまで泳いでいって、自分は彼女と一緒に死ぬのだ。
 それもすばらしいことに思えた。あなたの肉体は若く細胞は生き生きとしていて、そのぶん死に近く、この昂揚する気持ちのまま、二人で死ぬのは最高に思えた。
 
 月明かりの水面で、彼女が近づいてきた。夜の海で、仄白く裸体が暗い波の下に浮かびあがっていた。
「ねえ、ちょうだい、その真珠」
 彼女が笑いながらいう。
「わたしにくれるっていったでしょう」

 あなたがとまどったまま立ち泳ぎしていると、ふいに彼女が抱きついてきて、唇を重ねた。唇を割って舌が入ってきた。口のなかにあった真珠が、彼女の口のなかに移っていった。舌は温かく、厚みがあり、独立した生き物のようだった。あなたたちは唇を介在して、ひとつになっていた。

 それでも彼女の心はどこか違うところにあって、あなたは彼女の体を抱き締めながら、その心は抱いていなかった。
 その時にあなたが海に放った精は小魚たちの食べ物になったのだろうか。

 けれども、それきりだった。
 数日後に見かけた彼女はサーファーのボーイフレンドと肩を組んで歩き、笑い転げていたのだった。

 自分にキスをした彼女の真意はなんだったのだろう。
 あなたは心を裁ち切られ、傷つき、恨み、腹を立て、絶望して幾夜も悶々としたのだった。
 心のうちで彼女を罵り、彼女を奪っていった男を憎んだ。
 けれども今にして思えば、たんに少女の気まぐれ以外のなにごとでもない。理由なんてものはなく、彼女だって何も考えていなかったろう。若い時代には誰もが残酷なのだから。

 彼女はいま目の前にいて、落ちついた風情でカニの身を詰めたヒラメを切っている。ワインを飲むうちにラズベリー色の口紅も剥げて、ほとんど色はなくなっていた。
 彼女はあなたの記憶の百分の一も、あなたのことを覚えているわけではない。
 あの夏彼女が見つめていたのは他の青年であって、彼女の視線はその人を追っていた。同じ時、同じ場所にいながら、そこに刻みつけられた記憶はまるで違う。

その後もあなたはモントークを訪れたことはあったが、彼女と再会したことはなかった。
 釣り船に行ってみると、彼女はおらず、尋ねてみると、違う町に行ったという話で、ひどく落胆したのだった。

「いろんなことがあって、いろんなところに行ったのよ」
 彼女は移り住んだ町の話やら、仕事やらの遍歴を話してくれた。引きだしを開けてみると、すっかり忘れていた昔の写真の束が出てきて、思いがけず本人も思い出したといった具合だった。
「ほら、わかるでしょう。いろんなところに行きたくなる時期があったのよ、でも気づいたら、このヒラメの町に戻っていた。あなたは?」

 そう訊かれて、あなたは「うまくいっているよ、文句をいえないくらいには」と答えた。
いくつかの町に住んだし、うまくいった仕事もあれば、うまくいかなかったけれど、もう忘れたこともたくさんある。
「正確にいったら、けっこう失敗もしてきている。いい波もあれば、ガタガタな時もあった」

 暗い水面に、ランタンの光が映ってちらついていた。夜半になると冷え込んできて、夏でもモントークらしい荒々しく冷たい風が吹いてくる。

「あの頃、きみは浜辺の女王さまみたいだったよね。誰もがきみを手に入れたがっていた。なのに、僕にも親切にしてくれたよね」
 彼女が口もとをゆるめた。
「白状するとね、わたしはけっこうあなたが好きだった。まだ子どもっぽかったから、つきあう相手には考えられなかったけれど。なんていうのかな、ブイみたいなものだったのよ」
「ブイ?」
「ほら、海に浮かんでいるブイ。若い頃は自分でもあっちこっちに揺れて、どっちに進んでいるのかわからなかった。でもあなたは、ふり返ると場所が確かめられるブイみたいなものだったから」
「どういう意味?」
 彼女が頬杖をつきながら、こちらを見あげるような目つきで、髪をかきあげた。彼女が長い髪をかきあげてから、背中で振るようにした仕草を、どれだけ当時は恋こがれていただろう。こめかみに白いものが目立つ髪だったけれど、仕草は同じままだった。
「あなたは憧れの目で見てくれていたでしょう。たいていの男の子はものにしてやろうっていう態度だったから。釣りの獲物になった気がしていた。でも誰かに崇拝されていると、自分が上等になった気がしたわ」

 レストランを出ると、夜空は抱えきれないほどの星をこぼしそうだった。
「会えてよかった」とあなたは分別ある大人の声でいう。彼女の手を握ると、その堅い手触りに気づいた。彼女は潮風にさらされて、いつの間にかモントークの海そのものになっている。
 別れの挨拶をしてから、あなたはこうつけ加えた。
「きみはあの夏、完璧だった。いまもそのままだよ」

 ひとには完璧なものが見える時期がある。盛りあがった波に、雲の流れに、水平線の青に。
 16歳の夏は誰にとっても完璧だ。
 夏は永遠に続くように思えた。一日はすばらしく長かった。ボードに浮かんでいる時に見あげた目の眩むような陽光や潮の味、わきあがっていた雲、山ほど食べたソフトクリーム、停めたピックアップトラックのカーラジオから流れていた曲、こんなに美味しいものはこの世にないと思って頬張っていたピザ。
 その夏は二度と戻らない。だからこそ永遠の額縁に飾られるのだ。

 あなたは暗闇のなかを歩いて行く。
 車に乗りこみ、イグニッションキイを回す。そしてふと波の上を滑っていく感覚を思い出す。砂利を踏む音がして、車は走りだす。
 
 月は中空で銀色に輝いている。
 その同じ夜のなかを、彼女は車を運転していく。やがて街灯がない道に出る。くねくねと曲がる細い道を車は慣れたようすで走っていく。

 ヘッドライトが深い木立を照らして、車は小さな平屋の前で止まる。
 彼女は家のカギをあける。部屋の灯りをつける。淡いオレンジ色に照らされたなかで、居眠りから覚めたひとの動く音がして、ああ、と薄闇のなかからくぐもった声がする。
 遅くなってごめんね、彼女は灯りをつける。黄色い光のなかで、羽虫が動いているのが見えた。
 お帰り。相手が言う。車椅子が動く音がする。
 遅かったね。どうしていた。
 べつに。昔の知り合いに会ったのよ。

 冷蔵庫を開けると、青白い光のなかにタッパーが並んでいる。
 ねえ、と彼女は声をかける。
—あなただったら、昔の知り合いに会ったら、なんていう? ずっと昔の夏に会った人に会ったとしたら。
—さあ、どうだろうな。
 彼女は車椅子のほうをふり向く。相手の瞳とぶつかってから、また冷蔵庫のなかに視線を注ぐ。アルミフォイルに包まれたピザの包みがある。
—お腹が空いている? ピザを温めようか。
 視界の端で車椅子に乗ったひとのうなずくさまを見て、彼女は包みを引き出してオーヴントースターで温める。

 目を上げれば、窓の外は漆黒に塗りつぶされていて、彼方にかすかな対岸の光が見えた。
 波の音がする。太古の昔からそうであったように、この先もそうであるように。波の砕ける音がする。


■モントークのエリアガイド

モントークはロングアイランドの先端に位置する、ニューヨーク州で最東端の町。釣りとサーフィンで名高く、夏のバケーション先として人気が高い。マンハッタン市内からは車で3時間ほど。

The Surf Lodge サーフロッジ
住所:183 Edgemere Street Montauk, NY 11954
☎631-668-1562
1967年に建てられ、近年改装したサーファー向けホテル。スタイリッシュなレストランバーが併設されていて人気のスポットとなっている。
http://thesurflodge.com/


人気のホテル&レストランバー、サーフ・ロッジ。
アーティスティックでありながら、自然を感じさせるデザインがモントークらしい。

Ruschmeyer’s ラッシュマイヤーズ
住所:161 Second House Road Montauk, NY 11954
☎631-668-6233
1952年に造られたホテルを近年改装した人気ホテル&レストランバー。レストランはNYCのザ・スマイルのチームによるもの。さらにオープンエアのバー、マジック・ガーデンとクラブも併設。
http://www.chelseahotels.com/us/montauk/ruschmeyer-s/about

Crow’s Nest クロウズ・ネスト
住所:4 Old West Lake Dr., Montauk, NY 11954
☎631-668-6233
小さなホテルだが、NYCのバワリーホテルおよびジェーンホテルの経営者が経営していて抜群のセンスを誇る。レストランも人気。
http://crowsnestmtk.com/

Lazy Bones レイジー・ボーンズ
144 Jefferson Ave Montauk, NY 11954
☎(631) 668-5671
人気の釣り船で、半日の釣りができるコースがある。
http://www.montauksportfishing.com/lazybones.html

Sweet’tauk Lemonade スイートーク・レモネード
34 S Etna Ave, Montauk, NY 11954
☎631-668-5683
フレッシュに絞ったレモネードと、コールドプレス・ジュースの店。
http://www.sweettauk.com/


スイートークのレモネードは容器もかわいい。この容器ごともらえる。

Pilgrim Surf+Supply
4 Amagansett Square Amagansett, NY 11930
☎631-267-3598
ブルックリンとモントークに店舗がある、サーフィン用具とサーフのあるファッションやライフスタイルを提案する店。オーナーのクリス・ジェンティル氏はモントークに別荘を持ちサーフィンを愛する。
http://pilgrimsurfsupply.com/


アマガンセットにあるピルグリム+サーフサプライの店内。

黒部エリのホームページはこちら
ブログ「エリぞうのNY通信」はこちら