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No.2 7本指で弾くピアニスト、西川悟平

On: 本気で働くNY 好きな仕事でGO-GETTER!

『ディストニア(dystonia)』という病気を知っているだろうか。身体の一部の筋肉が異常収縮して、動かなくなってしまうという、原因不明の病気だ。

今月20日、ニューヨーク・カーネギーホールでのリサイタルで演奏するピアニストの西川悟平さんは、数年前に両手の指がすべて動かなくなった。ディストニアだった。

当時一生直らないと診断された悟平さん。
ピアノとともにあった彼の人生はどのようなものだったのか、そしてどうやってまたニューヨークや日本で活躍するピアニストとして復活したのか――。

異色の経歴

プロのピア二ストの多くは、物心ついたときから練習を始め、有名な学校や師のもと経験を積む。

しかし、悟平さんの場合、「将来の夢は映画スターと映画監督だった」と、ピアノの英才教育とは無縁だった。

小学校の音楽の成績は特にずば抜けていたわけでもなく、大好きな幻魔大戦の曲につられて入った中学のブラスバンド部ではチューバを担当。ピアノに最初に魅かれたのは、ある日先輩がショパンの『ノクターン』『英雄ポロネーズ』を弾いたときだった。

あまりの美しさに衝撃を受け、「いつかこの曲を弾けたらな」と、悟平さんは学校の作文に残すほどだったが、当時はチューバに熱中、それで音大に行こうと思っていた。

ただし、チューバで音大に行くにもバイエル程度のピアノの試験がある。
それを知った悟平さん、15歳のときにようやくピアノのレッスンを受け始める。かなり遅いスタートである。

男子高へ進んだ悟平さん、ある日、持物検査で先生が悟平さんのカバンからショパンの楽譜を見つけた。
むさくるしい男子高の持物検査で予期せぬものを目にした先生は超びっくり、「何だこれはーー!」と、楽譜を取り上げようとした。

「わーー、それは大事なものだから取らないで!お願いします!」と事情を話したら、今度は逆に応援してくれるほどに。

なにしろその男子高で音大を目指す生徒は、創立以来悟平さんが初めてだったのだ。学校は会議室にそれまでなかったピアノを用意し、「好きなだけ弾いていい」と悟平さんに勧めるようになったそうだ。

試験のためにピアノを練習するうちに、悟平さんはいつしかチューバよりもピアノが面白くなってきた。

かつて大きな衝撃受けたショパンの曲は、高校在学中に弾けるようになり、ついにはチューバでなく、ピアノで音大にチャレンジすることに。

「99%の人が経験の浅い僕にピアノで受験することを反対しました。
でも僕は本当にピアノを続けたかった。」

すでにプロ級の音大受験者に比べ自分が不利であると知っていた悟平さんは、短大から四大へ編入する作戦を立て、1992年、大阪音楽大学短期大学部ピアノ科へ入学した。

しかし、その後の編入試験の壁は大きかった。

試験の課題は、悟平さんが当時もっとも苦手としていたベートーベン。
楽しみにしていた成人式への出席も諦め、毎日10時間以上も練習して臨んだ試験だったが、パスすることはできず、 翌年もチャレンジしたが、やはり願いは果たせなかった。

和菓子屋の店員がニューヨークデビュー!?

2回の編入試験に落ち、悟平さんは放心状態。雑貨屋で働いてみたり、台湾やロンドンに放浪したり。

その後何かしらの仕事につかねばと、就職したのはデパートの中に店を構える和菓子屋だった。

この間、知人に頼まれて時々バーで弾いたり、小さな演奏会に出たりしていたが、ピアノを弾くうえで大きな目標のない悟平さんの気持ちは宙ぶらりんのまま。

弾きたい!という熱意はあるのに、そのはけ口がないのだ。

しかし、悟平さんに信じられないような幸運が舞い降りる。1999年のある日、大阪で行われた演奏会で、悟平さんの演奏がニューヨークから来ていた二人のピア二ストの耳に止まった。

「はっきりいって上手くはない。でも彼のピアノは熱意があって何かを語ろうとしている。何かが私の心を捉える。」

世界を飛び回って演奏していた巨匠故デヴィッド・ブラッドショー氏とコスモ・ブオーノ氏にそう言わせた悟平さんのピアノ。

なんと両氏はニューヨークでのレッスンと演奏するチャンスを悟平さんに約束する。

その3ヶ月後に悟平さんは渡米するが、デヴィット、コスモ両氏が用意していた演奏の場とは、なんと、世界に名だたるあのリンカーンセンター、アリスタリーホール!

それまで三角頭巾をかぶってデパートでモナカを売っていた和菓子屋の店員は、2000年、ニューヨークの2千人のホールでデビューを果たした。

その後も、アメリカで演奏する機会に恵まれた悟平さん。

しかし彼は単に幸運だけでチャンスをものにしていったわけではない。
巨匠故ブラッドショー氏の最後の愛弟子として、毎日長時間に及ぶレッスンについていったのは本人の努力があってこそ。

かつて苦手であった、ベートーベンの演奏法はもちろん、ピアノ教授法など、本来なら10年以上かかる厳しい修行を数年で懸命にこなし、結果、日本の音大で学ぶ代わりに、いや、音大ではとても勉強できないことも、氏から学んだ。

二度目の絶望、死の淵へ

順調に滑り出したかに見えた悟平さんのピア二スト人生。

しかし悟平さんには病魔が近づいていた。

渡米して間もない頃から感じていた指のつっぱりが、日に日にひどくなっていったのだ。順調に舞い込んでくる演奏のチャンスと逆行して、ジワジワと固まっていく指に恐怖が募る。

やがて左手が動かなくなり、渡米4年後にはすべての指が内側に曲がったまま全く機能しない状態になった。

それは、決まった動作を行うときにだけ筋肉が異常収縮する、いわゆる「職業ディストニア」。
ピアノに向かうと指が動かなくなる。

演奏の機会を与えられて嬉しい反面、悟平さんは「経験の浅い自分が周囲の期待に答えられるだろうか」という大きな不安とプレッシャーが常にあったというから、心理的な要因もあったのかもしれない。

保険の利く日本で治療を、と一時日本に帰ったが、当時ディストニアはあまり認知されておらず、首から下の症状には保険が利かないことがわかり途方に暮れた。

さらに、何人もの医者から、その症状は不治であるとの診断が下され、先が真っ暗闇となった。
ショックが大きすぎて涙も出ない。胸が重い。顔を上げて歩くことができない―-。

「生活のために介護士とかハウスキーパーとか八百屋で働くことも考えました。
 
でもアイデンティティ・クライシスというのでしょうか。
ピアノがあっての自分だったので、ピアノなしで生きる意味は全く考えられませんでした。」

ほとんどノイローゼとなった末、考えたのは死であった。

「でも怖くて死ねなかった。
自分の手首をしばらく見つめていたけれど本当に怖くて―。
 
そして、死ぬ勇気があったらまだ何かできるかもしれないと思ったんです。」

それまでは、話したが最後、アメリカで勉強を続けられないと思い、ニューヨークのピアノの先生やスポンサーに病気のことを黙っていたが、もはや自分に行く所はないと思った悟平さんは、彼らに初めて指のことを告白した。

すると、驚いたことに、彼らは悟平さんが予想していなかった答えをくれた。

「一緒に治して行こう。」

それ以来、悟平さんはディストニアであることを公言するようになった。


© 野崎悠 演奏直前、ピアノに祈りを捧げる悟平さん。

ディストニアを抱えて新たな挑戦

悟平さんがディストニアであることを知りながら、音楽ディレクターとして彼を採用したのが、JHC Foundation, Inc(ジェイ・エイチ・シー・ファウンデーション)の山本薫氏。
バイリンガルの幼児教育に定評のあるアメリカ・コネチカット州の学校法人だ。

「子どものうちに質のよい音楽と楽しさを」との山本氏の想いをもとに、悟平さんはJHC Foundation, Incの運営するグリニッチ国際音楽院の音楽ディレクターとして、子どもたちのクラスを受け持つことになった。

「当時は『ちょうちょ』も『チューリップ』もまともに弾けなくなっていた。
そんな僕に先生が務まるのかと心配でしたが、思い切って始めることにしました。

結果、子どもたちに教える喜びをいただいた。」

と、悟平さん。


JHCFoundation, Inc. グリニッチ国際音楽院の音楽クラスにて

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Comments

約3年、悟平先生にレッスンを子供と一緒に受けています。最初に演奏を聴いたときは、「今までこんな演奏、一度も聴いたことない!」と晴天の霹靂でした。今までの彼の人生、感情、音楽に対する愛情などが曲に溢れ出ています。癒しの演奏の中にも強さが感じられ、聴いている人をどんどん曲の世界に引き込んでくれます。本当にピアノが好きで諦めずにいかたらこそ、極めることができた7本指の技術。実際に見たら涙が出ますよ。とにかく、演奏を聴いてほしいです。

もんさん、コメントありがとうございました。親子で習っていらっしゃるんですね!私も習いたいな、なんて思っているんです。しかし、医者に治らないといわれても諦めなかったゴヘイさん、本当にピアノが好きなんですね。それが演奏に自然に出るのでしょう。演奏技術、感情のメッセージ、ぜひ多くの方に知って欲しいです!

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