ニューヨークからプロライター達がお送りする、「ここだけ」のおもしろ情報。

NYでいちばん美味しいピザのこと

On: あなたがいるニューヨークの物語〜短編小説と写真で綴る街

Photograph by Shino Yanagawa
https://shino-yanagawa.squarespace.com/
https://instagram.com/shinopaz/


その朝、あなたは無精髭を丁寧に剃った。
ぷ、と片頬をふくらませて念入りに剃刀を当て、つるりとした肌にローションを叩きつけた。あなたには珍しく。

それからなるべく清潔に見えるシャツを選んで着こんだ。
今日のデートに備えて。

アッパーイーストサイドにある立派なアパートメントの大理石と真鍮に飾られたエントランスを入ると、受付に立つドアマンが会釈をした。

エントランスには、巨大なばかりで退屈な絵が飾られていて、その豪華な内装は、あなたの目にはいささか過剰で無趣味に映る。

ロビーのソファに座っていた人影が、
「ダディ!」
と声をあげて、ぴょこり、と立ちあがり、子ヤギのように走り寄ってきて懐に飛びこんできた。

コンマ5秒ほどの間、あなたはその子が思いがけず大きいことに驚いて、自分のなかの記憶を更新する。
8歳になる娘はまたも背が伸びているらしく、その元気な塊を抱き締めて、額にキスをする。

「ハナ、背が伸びたなあ」

いや、会わなかったのは4ヶ月間なのだし、その間もオンラインで会話をしたのだし、それほど背丈が変わったはずはないのだが、娘は急に成長しているように見えて、目の前にいる少女と頭の奥に保存してあった娘の面影が二枚のフィルムを重ねたように合わさった。

「それじゃあ、よろしくね」
と母親が口にする。

あなたにとってはあまり交渉が得意ではない相手、すなわち元妻はジャンクフードを食べさせないようにとか、精製した白砂糖は避けるようにとか、学校で流行っている風邪のこととか細々した注意事項を説明してきた。

「わかった、そうするよ」
あなたは答えて、命令を受けとった下士官のようなまじめぶった顔つきをしてみせた。

「行こうか」と促すと、「うん」と答えて、娘はスキップするように歩いて行く。

舗道に出ると、あなたは娘と拳をつきあわせる。二人だけの秘密の暗号なのだった。

娘はボンボンが耳のように二つついたニット帽をかぶり、フェイクファーのついたアウターを着て、チュチュみたいなスカートの下にレギンスを履き、『アナと雪の女王』の絵がついたバックパックを背負っていて、全身がふわふわのキラキラで出来上がっている。

あなたは離婚後も半分の養育権を持ち、娘は学校のある平日はマンハッタンにいる母親のところで暮らし、毎週末にブルックリンにいるあなたと暮らすのが常なのだが、この4ヶ月間ほどフィルムの仕事を請けおって西海岸で仕事をしていたために会えなかったのだった。

そんな短い期間でも、娘は前よりも大人びて見える。
もし半年でも会わなかったら、たちまち知らないティーンエイジャーになってしまいそうだ。

朝から娘の通っているダンス教室に連れていき、顔見知りの保護者と挨拶をして、スマートフォンを操りながら待ち、クラスが終わると、何人か仲のよい子たちと近くのカフェで昼食を食べさせ、娘がパスタのトマトソースでTシャツを汚したのを拭ってやり、隣の男の子とこづきあってはしゃいでいるのを見て、よその母親が「あら、二人は仲良しね。将来は恋人になるかしら」と冗談をいったものだから、あなたは本気でムッとしてしまい、おかげで相手も鼻白み、それからセントラルパークに行って、「不思議の国のアリス」の銅像によじ登ったり、落ち葉を拾ったりした。

薄曇りの空の下、セントラルパークの木々は鮮やかな黄色や赤に染まり、その木々の縁取りの向こうに摩天楼がそびえている。

「アメリカ自然史博物館に行ってみようか」
「んー。行かない」
「なんで? ハナが好きなところだろう」
「自然史博物館は、この間行ったもん。夏には夜泊まるプログラムにも行って面白かったよ」
娘はそういって、それがどんなに面白かったか、熱心に説明してくれた。

「じゃあ、近代美術館はどうだ?」
「前もダディと行ったよ。もういいよ」
「メトロポリタン美術館は?」
「やだ」

ぴしゃりと娘は撥ねつける。
あなたにとっては、すばらしい美術作品を前にして、我が子に解説するのは歓びであって、この子には芸術を解するアーティスティックな感性があると勝手に思い込んでいたのだが、あきらかに本人は迷惑そうなのだった。

「なにか最近、おもしろいものはあったか?」
「この間はマチルダを観に行ったんだよ」
「マチルダ?」
「知らないの?」
まるで合衆国大統領の名前を知らないくらいの勢いで、びっくりされた。
「ミュージカルだよ、おもしろいんだよ」

娘はそれがどれほど楽しかったかを話して説明してくれる。

「それから先週はエイミーのお誕生会でね、みんなで美容院に行ったんだよ。ハナはエルサの髪型にしてもらったんだよ」

あなたはとまどって問い質した。

「美容院なんて大人が行くものだろう。なんで子どもが行くんだ?」
「髪をブローしてもらって、お姫さまみたいな格好ができるんだよ、楽しいんだよ」

それのどこが楽しいのか理解できず、あなたは幼い娘にそういう虚栄を飾ることをさせる母親たちに対しても憮然とする。

「来月はラジオシティにくるみ割り人形を観に行くんだよ」

つまり彼女はすべてを体験しているのだ。ニューヨークが提供できるすばらしいことを。

すばらしいブロードウェイのミュージカル。
すばらしいセントラルパーク。
すばらしいアメリカ自然史博物館。
すばらしいメトロポリタン美術館のエジプトの間。
すばらしいタイムズスクエアのカウントダウン。

彼女は人生のごく初期にそうしたトップクラスのものに出会って、それを当たり間のことだと考えていて、すくすくとナマイキなニューヨーカーに育っているところなのだ。

やるなあ、とあなたは思う。
これだからニューヨーク・キッズは手に負えない。

ニューヨーク・キッズときたら、セントラルパークでアイスクリームを食べ、道端でホームレスが物乞いをしているのも見慣れ、地下鉄の駅ではいつでも誰かが演奏しているものだと考え、ロックフェラーセンターの前に立つクリスマスツリーを見て、サンタクロースと記念撮影をして、タイムズスクエアを横切りライオンキングの舞台を観て、年末にはラジオシティミュージックホールでロケッツのショーを観るものだと思っている。

この娘は8歳にして世界の中心にいるような顔つきをして、まったく愛くるしいのだった。

この子は世界で最高のものを受ける権利がある。
それは当然だ。
しかしながら、多くのファンシーで高額なものを義父が与えている事実については、いささか複雑な気持ちもわきあがるのだった。

元妻はあなたと離婚した後は形のある現実を選んで、勤め先の上司であったファイナンシャル業界の男と再婚した。

再婚相手はよくこんな肥った男と寝られるなあ、と思わせるほど大柄な年上の男だったが、ごく善人らしく、生活は豊からしい。

あまり稼ぎのない男よりも、元妻は賢明な選択をしたというわけだ。
だが、あなたは子どもにファンシーではなくても、大切なことを教えられる。

「よし、だったら今日はこれからピザを食べに行こう」
「ピザ?」娘が目を耀かす。
「NYでいちばん美味しい店に行こう」
「ほんとに?」
「そうだ、ディファーラに行こう」
「やったー!」

無邪気に喜んだ娘を連れて、地下鉄に降りていく。
娘は片時もじっとしておらずに、スキップしたり、歌ったりして、プラットホームの黄色い線からはみ出しそうになるのを、いちいち引っぱる。少女は春の仔馬くらい元気が余っているのだった。

やがてやって来た黄色いQの目印がついた地下鉄に乗りこみ、しばらくの間娘は学校のことや友だちのことを話していたのだが、いくつも駅が過ぎていくうちに、ふとふしぎそうに尋ねてきた。

「もう着いた?」
「まだだ」

ドアが開いて閉まる。つぎの駅に着いて、ドアが開く。

「もう着いた?」
「まだだ」

席の後ろに貼ってある地下鉄路線図を示して、「今いるのはこのあたりだ。そして目的地は」とひと差し指をつい、と滑らして、どんどん黄色い線に沿って動かしていって「ここだ」と『アベニューJ』で止めた。

「ええええ」子どもの声がひっくり返った。
「海に行くの?」
「違う。ブルックリンのミッドウッドだ」
「すごく遠いよ。黄色い線の端っこのほうだよ」
「そうだ」
「やだ、ハナはもう飽きた」
「おれだって乗り飽きたよ」
 あなたは答える。
「でもな、ハナ。いったん決めたら、やり遂げなくてはいけないことが世の中にあるんだ。これは冒険の旅なんだ」
「えええー」
「ゲームでも必ず宝に辿りつくまでに試練が待っているだろう?
最初からラスボスは現れない。
いつだって冒険は長い道のりから始まるんだよ」
「冒険なの?」
「そうだ。ハナ、巡礼を知っているか?」
「知らない」
「巡礼というのは自分の信仰のために、聖地を訪ねていく人のことだよ。

チベットでは巡礼のために五体投地という行為をする。
地面にばったり倒れて、それから立ちあがって祈り、また身体を投げだして祈りながら進んでいく。

1回の五体投地で自分の身長の分しか進まない。
何万回も身体を投げだして聖地をめぐるんだよ、こんなふうにしてね」

とあなたは掌を使って、しゃくとり虫のように動かしてみせる。

「顔から倒れるの?」
「顔ではないけど、体を投げだすんだ」

あなたはもう一回掌で五体投地を繰り返してみせる。

「倒れたら、痛いよ。かわいそうだよ」
「それでもやるんだ。
それが信仰だからだよ。
簡単にできたら、達成感がないだろう。人は困難によって強くなる。
そして今、父さんときみは巡礼の旅に出ている」
「うそだあ」
「ほんとだ。ニューヨーカーにとってはディファーラのピザを食べに行くことが、巡礼の旅なんだ。
その巡礼の旅をやりとげて、初めてきみはニューヨーカーといえる」
「やだ、ハナは顔から倒れたくない」

娘がふくれ面で抗議した時、突然車内に光が満ちた。
地下鉄が地上に出たのだった。
窓の外にはブルックリン橋がそびえ、イーストリバーがきらめいている。

「わあ」と声をあげて窓ガラスに貼りついた娘の面にも光が差し、たちまち瞳が外の光景に引きつけられた。

地下鉄が地上に出るこの瞬間を、あなたは愛している。
いつも見慣れた風景なのだ。ニューヨークに住んでいれば何百回と見た風景なのだ。

それでも地下鉄が暗い地下からふいに地上に出た時の、まるで棺桶から目覚めたように明るく視界が広がる眺めに、昂揚しないニューヨーカーがいるだろうか。

「船だ」
と声をあげて、娘は大きな景色よりも、小さな船が川を渡っているほうに目が引きつけられている。その無心な横顔をまったくかわいらしいと、あなたは思う。

マンハッタンの南端ファイナンシャル・ディストリクトに隙間なく立つ摩天楼。
ブルックリン橋の幾本も伸びたワイヤー。
イーストリバーの鈍く銀に光る川面。
そして対岸で迎えるウォッチタワーの看板文字。

ひときわ目立つのが、ワン・ワールド・トレードセンターだ。
その少しねじった銀色のトゥイズラー菓子のような建物に、微かな光がいくつも煌めいている。

「あれがワン・ワールド・トレードセンターだよ」

あなたは指さして教える。

「昔はあそこにツインタワーと呼ばれる、世界でいちばん高いビルディングが二つ建っていたんだ。
双子のビルディングがあった。

きみが生まれる前のことだ。その世界でいちばん高い二つの塔に、飛行機が突っ込んだ。
父さんはテレビでそれを見ていた。

始めにひとつの塔に突っこみ、それから二番目の塔にも突っ込んだ。

それから不意にビルディングが崩れ落ちた。

これは映画のなかの出来事じゃないかと思ったよ。
こんなことはあり得ないと思った。
まるっきり現実感なんかなかった。

いちばん恐ろしい現実というのは、たいてい現実感を伴わない。
想像力を上回って、あり得ないことが起きるから、まるで虚構のように感じる。

それから現実が遅れてやって来る。

ちょうど花火みたいなものだ。最初に花火が目に入る。
少し遅れて音がやってくる。
その時にやっとショックが訪れる。

その後に深い悲しみが訪れる。
誰かの悲しみに同調して、街中が悲しくなる」

話している途中で、また地下鉄が地下に潜って視界が暗くなった。

少女にとってはさほど関心を引かれない話題だったようだが、話しながら、あなたの脳裏にあの日ブルックリン橋を歩いた記憶が蘇り、そして記憶というもののふしぎさで、ちょうど芋の根のようにひとつを引っぱればいくつもが同時に掘り起こされて、同時にいくつもの過去の記憶に触れた。

あの朝あなたは行きつけのコーヒーショップに行ったところで、みんながテレビを食い入るようにして見つめていたのだった。
映っている光景に唖然とした。
それから唐突に崩壊が起きた。壮大に仕組まれた映画のワンシーンのように。
誰もがその瓦礫を頭から受けたように、ただ茫然と立ちつくしていた。

仕事場に電話してもつながらず、ガールフレンドの携帯にもつながらず、交通網は麻痺していた。

あなたはビデオカメラを持ち出して、マンハッタンに徒歩で向かった。
何百人という人間が反対側からブルックリン橋を渡ってきていた。
空には黒い煙が立ち上り、物が焼ける匂いがたちこめていて、粉塵が舞いあがり、山ほどの紙が舞っていた。
ヨハネの黙示録のような光景だった。

我を忘れてビデオカメラで撮り続けたが、現場には近づけず、しばらく道端には座り込んで放心していた。
それから彼女のことが気になって跳ね起きた。

ガールフレンドとは連絡が取れていなかった。

なんとしても彼女の生きている顔を見たかったので、歩き出した。
ファイナンシャル・ディストリクトからイーストビレッジまで、えんえんと歩き続けた。
多くの人たちが粉塵にまみれて難民のように歩いていた。

ようやく古びた煉瓦色のアパートメントの前に辿りつき、玄関で部屋番号を押した。
ビーッという音とともに解錠された。三階に歩いてあがる。
ドアが開いた。

彼女の顔が現れた。
泣きはらした瞼で。途方にくれた目をして。

互いに声もなく見つめ合って、それからひしと彼女が胸のなかに飛びこんできて、抱き締めた。
彼女は細くて、抱き締めたら折れそうで、夜の欠片のように冷たかった。

あなたたちはこの世で最後に生き残った男女のように抱き締め合った。

彼女の狭いスタジオで、灯りを落とした部屋で、テレビが青い光を放っていた。
えんえんと流れ続ける事故の様子を、あなたたちは途方に暮れた孤児のように見続けたものだった。

まったくどれだけ無力だったろう。
これだけの大きな悲劇の前に、自分たちはまるきり無力なのだった。

重い衝撃の瓦礫を受け取りながら、そこに佇むことしかできないのだ。

その夜あなたたちはベッドでもひしと抱きあっていた。
抱きあいながら、体をまさぐり、隠されているものを探り合い、互いの弱い身体を抱きあった。

この世の肉体はなんと脆いのだろう。

爆弾からも崩壊からも守ることができない。
鉄の前にすぐ壊れる身体なのだ。

その弱く柔らかな肉体を、この世の脅威から守ることができない儚い存在を、この短い間にしか地上に存在できない肉体を、互いに抱きしめあったのだった。

あたかも殻をやぶったばかりの青白い蝉ほどに傷つきやすい身体として。
簡単に死に至る、脆い二つの肉体として。

誰かが死んだ夜、たくさんの命が亡くなった夜。
生きている誰かを抱き締め、生きている肉体を、血の温かさを、ここにある細胞の確かさを、息づかいを感じられることは、大切なことだったのだ。

あの一週間は、生涯でいちばん激しくセックスをした日々ではなかったのか。

公園のフェンスには探し人の紙が山ほど貼り出され、キャンドルが山ほど灯され、夜ごとに鎮魂の歌が歌われた。

なにをどうすればいいかわからない、けれどもなんでもいいからやみくもに誰かのために動きたくて、いてもたってもいられなくなってビデオを回し続け、ボランティアに申し込んだ。

そしてディファーラに行き、辛抱強く待ってピザを幾つも頼んで、箱を抱えて、ダウンタウンに行き、警察官に渡した。

「ディファーラのピザなんです、食べて下さい」

そのピザがどうなったか本当のところはわからない。
といっても、ディファーラのピザを断る人がいるとは想像できないから、誰かが美味しく食べたのだろう。

人間とは奇妙なもので、危機が訪れた時に、突如として心の優しくて柔らかい部分、ふだんは用心深く奥深く隠している部分、めったに陽に当てないために白くて脆い部分が、その時ばかりは顕れてしまうのだ。

あなたは彼女に結婚して欲しいと申し込んだ。

そして熱に浮かされるようにして結婚して、子どもが産まれて、やがて互いが平熱に下がった頃に、潮が引いた後の岩礁のように、ゴツゴツとした問題が見え始めたのだった。

妻が「話があるんだけど」と切り出すことが多くなった。
互いの求めることがずれて、噛みあわないことがわかってきた。

もっともぶつかりやすい岩盤は経済的な問題であって、その頃のあなたは社会的に意義のあるドキュメンタリー映画を作ることに没頭していて、会社勤めの妻のほうが確実で多い収入を稼いでいた。

二人とも自分にとって大切なものがあり、それは自分にとっては明確なことであるのに、互いになぜパートナーがそんな当たり前のことをわからないのか、いらだちばかりが募っていった。

まだ幼かった娘がベッドに這い上がってきて、泣きじゃくる日々が続いた。

小さな娘は「ヌーグ、ヌーグ」と訴えた。
「ヌーグが来る、ヌーグ、恐い」

ヌーグとは何か。
あなたにも妻にもわからなかったが、自分たちが幼子の頭上で交わす言い争いが、不満と怒りと不安が、幼い娘にも恐れを降り注いでいるのはわかった。

この幼い者に対して自分たちは理不尽なことをしている、とあなたは感じたのだった。

そして離婚した後、あなたはようやく窮屈な服を脱いだ気分になれたのだったが、ある夜ひとりの台所で冷えたピザを立ちながら囓っている時、ふと娘が歌う声が聞こえないことを、そこかしこに落ちているカラフルなヘアをしたポニーの人形を踏んづけないことを強烈な寂しさを覚えたのだった。

「もう着いた?」
またもや娘から魔の質問が繰り返されて、「まだだ」と答えた。
「まだ転送装置は開発されていないから、あと8駅くらいある」
「やだー。飽きたー」
「状況は変えられないが、違うことを考えることはできる。よし、こう考えてみよう。きみは今、箱を手に持っている。目には見えない箱だ。その中には何がいる?」
「なにって?」
「どんな生き物でもいいから、好きな生き物を持っていいとしたら、どんな生き物が入っている?」
 娘が膝の上にある目には見えないボックスをしばらくじっと見つめたあと、確信に満ちた声でいった。
「ピンク色の生き物」
「それはどんな形をしているんだ?」
「円いよ。ぷにぷにしているの」
「どういう生き物なんだ?」
「ドラコーンなの」
「ドラコーン?」
「ドラゴンだけど、ユニコーンなの。虹色の羽と角があるの」
「それはいいな。なにを食べるんだ?」
「マシュマロ」
「マジか? 野菜は?」
「食べないよ」
「肉は?」
「ドラゴンの時は食べるよ、ワニも食べてしまうんだよ」
「それは恐ろしいな」
「恐いんだよ。大きな歯があるの」
「なんでユニコーンがドラゴンになるんだ?」
「怒ると、ドラゴンになるんだよ」

その生き物はピンク色をしていて、きらきらしていて、空を飛べて、でも怒ると、ぐおおおお、と赤くなってドラゴンとなり、海をも渡っていくことが判明したところでまた地下鉄が地上に出た。

昔ながらのブルックリンの街並みが現れる。プロスペクト・パーク。チャーチ・アベニュー。

「よし、ハナ。歌を聴かせてくれよ。きみの得意なやつ」
「うん、いいよ」

人がほとんどいなくなった車内で、少女は手すりのポールにつかまって、くるくるくる、と周りながら歌い出した。

おなじみの『レット・イット・ゴー』を歌い出すと、なかなか上手で、あなたの目にはこの子にはとびきり特別な才能があるように映る。

身ぶり手ぶりをまじえて、娘はすっかりヒロインに成りきって歌っている。
雪の女王らしい仕草でポーズを決めて歌い終わった。

どこからか拍手がした。
遠くの席に座っていたハンチング帽の老人が手を叩いている。

とたんに娘は恥ずかしかったのか、あなたの隣に駆け戻ると、ぎゅう、と胸もとに顔を押しつけてきた。
ぐいぐい頭をなでてやると、長いもつれた髪の毛の間から、赤く上気した顔があらわれて笑いくずれた。

地下鉄は各駅停車で止まっていく。どれも鄙びて見える駅舎だ。

「もう着いた?」
「まだだ」
「もう着いた?」
「まだ」
「あああああ」
娘は溜息をついて、ずるるるる、と座席を背中で滑るようにして、ほとんど仰向けになった。

「お腹が空いたよお、もうハナちゃんは死んじゃいます。ああああ、外に出たいよおおお」
「グッドニュースがある。つぎの駅だ」
「ほんと!?」娘が跳ね起きた。
「ついにアベニューJに着いたぞ。父さんは嘘つきじゃない。ラピュタは本当にあったんだ」
「やったー!」

娘と掌を打ちあわせてハイファイブをして、駅のプラットホームに降りたち、階段を下りて道に出れば、すぐその角にPIZZAの看板がぼんやりと光っている。

薄暗い蛍光灯に照らし出されたのは、ほとんど消えかかっているような古びた文字だ。ふつうなら、この店は終わっている、と思える看板だ。

窓口に並んで、ピザをオーダーして支払う。
それからあなたは娘のほうを向いて、伝えにくいことを伝えた。

「ひとつ悪いニュースがある。ピザが焼き上がるまで少し待たなくちゃいけない」
「ええええーッ」娘が叫んだ。
「やだやだやだ、帰る!ダディのうちでピザを頼もうよおおお」

子どもが大声でわめいて、じだんだを踏み出した。

「その気持ちはよくわかる。おれもわめいて暴動を起こしたい。よし、まずドーナッツを食べよう。ここにドーナッツを食べたい人はいるか?」
「いる!」

しゅた、と娘が手をあげて、数軒先にあるダンキンドーナッツに行って、コーヒーを頼み、娘にはフレンチクルーラーを注文した。

甘いドーナツを食べると、とたん娘の機嫌がよくなった。
互いの掌を叩く遊びをしたり、どちらか変な顔ができるか変な顔競争をしたりしているうちに、ようやく順番の時間が来た。

ディファーラの店に戻ってみると、店の入口には紐が張られて「クローズド」と書いた紙が貼られていた。

「ダディ、たいへんだよ、お店が閉まっているよ」
娘はこの世の終わりのような声をあげた。
「大丈夫だよ、もう支払っているから。
この店は生地がなくなると、店を閉めるんだ。おれたちの分はちゃんと確保してある。ラッキーだったな」

紐をまたいで入ると、店内は狭い。狭い上に古びていて、調度品と呼べるものすらなく、安物の合板のテーブルとパイプ椅子しか置いていない。

くすんだ緑色の壁には新聞記事の切り抜きが掲げられているが、その新聞記事すらいつのものかわからないほど変色している。

この店は改装も考える暇がなかったらしく、すべてが古びているのだった。

カウンターの向こうには巨大な竈と、こちらに背をむけて働いている老人がいる。
かたわらに置いてあるのは、半世紀ほども古びて現役を退いたレジスターだ。

褪せたチェックのシャツを着こんで少し背を丸めた老人は、むしろ公園のベンチで一日じゅう座ってハトにエサをあげているのが似つかわしく見える。

「あのおじいさんがいるだろう? 彼が伝説の名人だ」

あなたは娘に話しかける。

「あのおじいさんは50年間も毎日ピザをこねて焼いてきた。

すごい秘密を教えようか。
うんと昔に父さんが初めて食べに来た頃から、あのおじいさんは、おじいさんだったんだよ。

ずっと前からおじいさんで、いまもおじいさんなんだ。
すごいだろう。
たまにそういう人間がいる。

ローリングストーンズというバンドを知っているかい?」

娘がかぶりをふる。

「ローリングストーンズは世界を変えたバンドだった。
その頃世界はまだ音楽で変えられた。

ローリングストーンズには、チャーリー・ワッツというドラマーがいるんだ。
父さんがロックを聴いてバンドを高校でやっていた時に、すでに彼はじいさんだったんだよ。

ところが驚くことに、今でもチャーリー・ワッツは現役のじいさんなんだよ。
すごいだろう。

世の中には、何十年もずっと同じでいる人間がいるんだ」

娘がまっさらな紙みたいに表情をしていた。わけがわからなくて、停止した瞳をしている。

「父さんは知っている。そういう人類は、秘密を持っているんだ」
「どういう?」
「ピザだな。魔法のピザを食べているんだ」
「魔法のピザがあるの?」
「そうだよ、それを今から食べる」
「マジで?」
「大マジだ」

老人はピザの生地の弾力を指で確かめている。
なにを確かめているのか、他人にはわからない。そこにはおやじさんと生地だけの世界があるらしい。

円形に広げて、トマトソースを塗り、チーズをたっぷり乗せていく。

それからピザを木で出来た大きなへらに載せて、竃の奥に押しこむ。
しばらくしてから竈を開け、おやじさんは素手でピザを確認して、まだ焼きが足りないと判断すると、竈に戻す。

素手で、だ。
素手で焼き加減を確かめるのだ。

どれだけ火傷を負ってきて強く厚くなった手の皮膚なのだかわからない。
老人は完璧な焼き具合をその指先で確認しているらしい。

そしてまた新しい生地をこねて広げ始める。

「ほら、見てごらん。
おじいさんが生地をこねているだろう。
あのおじいさんは掌からなにか発しているんだよ。

ピザに対する気合いを掌から生地に込めているんだ。
だから美味しくなるんだよ」

「掌から? 元気玉みたいなもの?」
「うん、そんな感じのものだな」

おやじさんが毎日、毎日、同じものを作り続ける根気と、こだわりを考える。

指触りだけで完璧に辿りつく、その研ぎ澄まされた境地、自分と完璧なる存在が結びつく領域。

バイオリンの名手が弦を押さえるべき場所とつながっているように、彼はピザの生地と結びついているのだ。

おやじさんが竈をあけ、ピザを確かめて、その指先で完璧な焼き具合だと納得した時、ついにピザが引き出される。

焼き上がったピザの上から生のバジルの葉をハサミで切っていってたっぷりと乗せる。
オリーブオイルをまわしてかける。
ピザを切る。

あなたはピザの箱を渡してくれるベテランの店員とは顔見知りで、互いに笑顔で挨拶をかわす。

「あの店員のおじさんはな、ハナと同じ年くらいからこの店に来ていて、ピザをタダで食べさせてもらえるから、テーブルに椅子を並べる手伝いをしたらしいよ。

それからずっとこの店で働いているんだよ」

テーブルに着いて箱を開ける。
湯気を立てているピザの三角の一片を紙皿に置いて、娘の手に取らせる。

「熱いから、火傷しないようにな、ふうふうしなさい」

ふうふうふう、と娘が息を吹きかける。
溶けたチーズは泡立つほどで、子どもの分は念入りに冷ました。
大きな三角形から溶けたチーズを取りこぼさないように、縦に折り曲げて、その先端から囓らせる。

娘が「あち、あちあちあち」といいながら、ピザの三角の先端を口にして、「んんんん」と声をあげる。
目が大きく見開かれる。

あなたもピザの一片を頬張り、そのとたん溶けたチーズが熱い奔流となって口のなかに流れこんで、クラストが舌の上で溶け去り、頭のどこかが彼方にふっとんだ。

「んーーーー」と娘が声をあげる。
「んーんーん」とあなたは唸って目を合わせる。

あなたはチーズの激流に溺れて、そのまま意識が飛んでいくと、天上のどこかで星にぶつかって地上に戻ってきた。

「うまい!」と声が出る。

何種類ものチーズがいっぺんに口のなかで溶けていき、いっぽう縁の生地はもちもちと噛み応えがある。

チーズも生地もトマトソースもまったく素朴な味わいでありながら、ここにしかない味わいであって、あなたの魂もとろけて、どこか背徳的なほどの快楽に浸るのだった。

これだ、この味だ。
これをもってしてニューヨークのピザというのだ、とあなたは深い満足を覚える。

洒落たピザなんてものはどうでもいい。この素朴な、けれども魂が込められたピザの味を愛しているのだ。

娘はといえば、まるで三日間何も食べないまま砂漠を渡って来たように激しくピザを貪っている。

「うまいか?」
こくこくと小さな頭が揺れた。

「よし、ハナ。これできみは正式なニューヨーカーに認定された」
あなたは笑って、娘とげんこつを打ちあわせた。

「なぜ食べなくちゃならないか、わかったかい」
そう尋ねると、娘が首をかしげた。
「おいしいから?」
「そうだよ、ここがニューヨークの誇りだからだよ。

毎日、同じようにおいしいものを作るっていうのは、たいへんなことなんだよ。

毎日、毎日、気分が乗らない時も、嫌なことや困ったことがあった時も、飽きた時も、同じように何かを最高に作ることは、たいへんなことなんだ。

そこに魂をかけなくちゃ、そんなことはできない。

それは大切なことなんだ。
学校では教えてくれなくても、とても大切なことなんだ」

この店はずっと旨いピザを出してきた。
ニューヨークの地下鉄が落書きだらけだった頃も、売春婦たちがウエストハイウェイで丸裸の尻を出して立ちん坊をしていた頃も、それからジュリアーニ市長が売春婦やドラッグディーラーを掃いて捨てて、ニューヨークを金持ちだけの街に仕立てた時も、ある朝飛行機がツインタワーに突っこんだ時も、その後の喪に服して一時期的に誰もが優しくなった時も、その後はやっぱり元通りの皮肉たらしい嫌なヤツばかりに戻った時も、街に金が流れ込んでぎらついていた時も、その後リーマン・ショックで目抜き通りの店がばたばたと閉店した時も、ブルックリンが急にヒップな街になって、家賃がスカイロケットのように上がった時も、常に変わりなくこの店は美味いピザをこねていた。

そうだ、あなたが初めて来た時も、元妻と来た時も、離婚した後にひとりで買いに来るようになった時も、必ずこのピザはおいしいのだった。

その変わりない味への敬意なのだ。

あなたは無心にピザを頬張っている愛しい者を見つめる。
愛する者が無心に食べている姿ほど、安堵できるものはない。

誰でも生きていれば、惨めさに打ちひしがれながら、冷えたピザを口にする夜があるものだ。

ひとは何度も、そんな夜を生き延びていくものだ。

本心をいうならば、あなたは娘にそんな夜を迎えず、いつも幸福な食卓に向かって欲しいと願っている。

それでも生きている限り、この娘にも、いつか冷えたピザを口に押しこむ夜があるだろう、と心のどこかで知っている。

チーズとソースにまみれた指を一本ずつしゃぶりながら、娘が口にした。

「ハナはね、お姉さんになるかもしれないんだよ」

ふと食べていた手が止まった。

「お母さんに赤ちゃんが出来るのか?」
「そうだよ」
「男の子か、女の子か」
「男の子らしいよ」

2枚目のスライスを食べ始めている娘の少しうつむき加減の顔に、そのつやつやとした髪に、その光を集める生命力に、言葉にはできないなにかが胸のなかに渦巻きながら、あなたは娘の肩に手をかける。

「よかったな。弟ができると楽しいぞ。もっと楽しいことがいっぱいあるぞ」
「そうかな」
「赤ちゃんができたら、お母さんは忙しいから、何ヶ月かは父さんのほうにたくさん来たほうがいいかもしれないな。父さんは嬉しいよ、ハナといっぱい一緒に遊べるから、楽しみだ」
「ほんと?」
「当たり前だろう。父さんは、いつもハナのためにいるぞ」
「知っているよ」
ピザを頬張りながら、なんでもないことのように娘が応えた。
「ダディがヌーグを退治してくれたもん」

ほとり、と頬を軽く張られたように、娘を見る。
覚えていたのか。
あの幼い日の、恐れを覚えていたのか。

あなたにはヌーグがなんだかわからず、いったいいつ自分がそれを退治したかもわからないのだが、確信はあった。

「そうだ、父さんはいつでもヌーグを追い払う。きみを必ずヌーグから守る」

あなたは身を乗りだして、娘に語りかけた。
「ひとつ約束してくれるか」
「なに?」
「きみのマミーにいえないことや、きみの義父さんがいえないことが出来た時は、父さんに相談してくれないか」

娘が面をあげた。

「どういう?」
「わからない。まだわからない。でもそういう時期が来たら、たいてい親にはいえない秘密の問題ができるものなんだよ。

でも父さんは答えてあげられると思う。
それだけ覚えていてくれ」

わかったような、わからないような表情が少女の面に浮かぶ。

「いいよ」

少女の口もとにピザのチーズが伸びている。
ふいに強い愛おしさがこみあげた。

この子がなにをしても、自分はこの娘をいつも愛しているだろう。
この子には失敗する権利だってある。なにがあっても、どんな時でも、どんなだめな時でも、自分は必ずイエスというだろう。ただそのままの娘に。

手を伸ばして、その柔らかな頬を包んだ。

「なに」

娘が聞く。
無邪気でいられる者の目をして。なにも返す必要がない者の瞳で。

その瞳の明るさに、命が溢れる光に、まだ見ぬ未来に、あなたはイエスという。
ただひたすらイエスという。


■ピザ店舗 

Di Fara Pizza
ディファーラ・ピザ
住所:1424 Avenue J Brooklyn, NY 11230
☎(718) 258-1367
水曜〜土曜、月曜12:00pm~4:00pm,6:00pm~8:00pm日曜1:00pm~4:00pm,6:00pm~8:00pm
火曜休

1965年創業。ナポリ近くの出身であるイタリア移民、ドミニコ・デマルコが開業して、現在は息子と共に働いているが、一貫してピザを作るのはドミニコひとり。材料のサンマルツァーノ種トマト、バッファローモッツァレラチーズ、パルメジャーノレッジャーノ、オリーブオイルなどはすべてイタリアから輸入。薄いクラストを特徴として、ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーク・マガジン、ザガット、タイムアウトなど各メディアで、NYのベスト・ピザの栄冠に輝き、デブラジオ市長も「NYのベスト・ピザ」と賞賛している。州外からも観光客が訪れる名所であり、予約は取らず、1〜2時間待つのが通常。それだけの価値があるピザとして愛されている。

ピザのスライス$5
レギュラーパイ(ホールピザ)$30
スクエアパイ(四角いホールピザ)$34
ディファーラ・クラシックパイ(ソーセージ、ペッパー、オニオン、マッシュルームのトッピング)$35

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